lunatrium/fabula cella
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【2008/08/28 10:37】
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キュア
夜半過ぎまで、あの女は帰ってこない。あのうわばみは、きっと今夜も男に酒を奢ってもらっている。「店にキャッシャーが無いと思えば、相手に気兼ねせず物を頼める」、初めて二人で会った晩に、そんなことを言っていた。
あの女はカクテルを好まない。砂糖や果汁に馴染ませた円い酒を飲んでも、新月の夜空のように暗い酔いを得られないと知っているのだ。冷やしきられているのに、のどを滑るや熱線を放ちだすような液体、水と火の混合物。そういう酒を、身銭を切らず、飲みたいだけ飲む。それがどれだけ夜への歓待となりえるか、あの女は知っている。そうして部屋へ帰ってくると、消化器に濁りをこびりつかせて醸される特有のにおいを振り撒きながら、僕にしな垂れかかる。僕が服を脱がし、化粧を適当に落としてやると、あの女は、財布になってくれた男のことを、眠たそうに僕に説明する。どれだけ美しい男も、醜い男も、その口述の中では全く平等になる。容姿や身なり、物腰、語彙、財力、雰囲気。人が人を評価する凡そ全ての要素は軽く扱われる。女は私情をはさまず男の全てを説明する。そこではあまりにも冷徹な要約が行われている。自分もその語調で要約されているかもしれないと思うと、背筋が寒くなるほど簡潔な口述。
今晩も、あの女はそのアクションを繰り返す。ほとんど瞼も開けず、ベッドに臥してきた。ぼくは女を起こす。服を一枚剥ぐ度、濁った血が汚したように、肌から饐えたにおいがする。下着だけを身につけた姿にして、僕は専用のタオルで彼女の顔を拭う。化粧が落ちてゆく。表情が全く変わらないものだから、容姿を変えている心地が全くしない。
「ストリート・ファッションのブランドを抱えてる人だった……」
寝言のように女は呟く。
「クラブ遊びが身に染み付いてるからって、コロナ・ビールばかり飲んでた。私には高いジンばかり飲ませてくれた。童顔だったわ、大学生みたいだった。すごく高そうなチェーンが首に」
ぷつりと言葉が切れた。眠った証拠だ。僕はタオルをくずかごに捨て、水場に立ち、指から化粧水の匂いを落とす。ついでに水道水を飲む。冬の冷たさが、水の薬臭さをごまかしている。
女の口からは寝息が聞こえる。息を吐くとき、わざと発音しているかのように、はあっ、と確かに聞こえる。隣のビルがのしかけてくる夜の闇に潰されそうなこの部屋で、数多の暖房の排気に包まれて冷却され続けるこの部屋で、女は下着で眠る。僕は女を暖めるために、自分も肌を曝して、添い寝をしてやらなければいけない。
そうせず朝を迎えれば、女は僕を殴るだろうし、手近に刃物があればまた傷をつけられる。僕は寝巻がわりの長袖のTシャツを脱ぎ、穿いているスウェットも脱ぐ。トランクス一枚のからだを、女の稼ぎで買ったベッドと、女の稼ぎで買った毛布の間に滑り込ませる。そして女を抱きすくめる。やわらかく熱い。酔いのにおいの後に、香水とシャンプーの香りがして、その奥に女のほんとうの体臭があった。
卵を焼き、コーヒーを淹れる。パンを焼きもする。そうしている内に、女は起きてくる。それが分かっているから、女の分まで用意はしている。
朝の七時半、下着姿に一枚何か羽織っただけの僕たちは、座卓を挟んで朝食を摂りながら、何も話さない。沈黙に耐えかねてか、いつも彼女はCDをかける。今朝はカントリー調の穏やかなロックをかけている。尋常でなく有名なミュージシャンであるはずなのに、一向に名前も曲名も浮かんでこない。女がいつだか、世界一売れているベスト・アルバムだ、と得意げに説明していたことだけ覚えている。
女は食事を済ませ、シャワーを浴び、着替えを始める。女は裸体を僕に曝すことに、もう何の羞恥も見せないし、僕は端から欲情を向けたことは無い。コートを着始めた彼女に声をかける。
「今日の小遣いは?」
女は僕の言葉への反応をひとつもしなかった。まずい、と思った。女はコートを着ると、座卓の上のカップをとる。僕がこの部屋に転がり込む前からあった、彼女愛用のものではない。最近僕が買った安物のカップだ。中身が入っているそれを、僕の胸に投げつけてくる。コーヒーのお代わりをしたばかりで、Tシャツに沁みてくる液体は、熱い。無意識にTシャツを脱ごうとすると、それより先に、女は僕の頭を蹴り飛ばす。見た目に細いとか、ジーンズを穿いていて窮屈だとか、そういう理屈と関係の無い威力だ。こめかみの上を蹴って足を痛めたか、彼女は怒りを露にする。フローリングに蹲る僕の顔を、どうにか殴ろうとしながら、
「よくも一人前に無心ばっかり、恥知らず」
そんな言葉を奮う。ひとしきり僕を殴ると、息を弾ませながら財布から札を出してくれる。それを放り投げ、バッグを持って出て行った。普段通りの動作をしていたくせに、ストレスを溜めていたらしい。
女は、昼間は会社勤めをしている。夜になると男を引っ掛けて、飲ませてもらう。その前後にプロスティテューションという過程がある。
台布巾を持ってきて、床にはねたコーヒーを拭く。上から垂れて、溜まったコーヒーを揺らす液体がある。僕の血だ。痛みがいつもと変わらないので、止血を急ぐ気になれない。Tシャツを洗面場で手洗いするついでに鏡を覗いた。鼻血が出ているだけだ。
コーヒーの始末をつけて、終始鳴り続けていた朗らかなカントリー・ロックを止める。ティッシュを鼻に詰め、ベッドに横たわると、蹴られた頭が疼いているのに気づく。僕は貰った金をどう遣うか考えている。
気軽にいろいろな店を回っていると、欲しいものと必要なものの区別がつかなくなってくる。部屋にあるマンガを思い出す。ワニを飼う女性の話だ。その人物は、欲しいものを買うことで、心からの悦びを得る人物なのだ。あの女があんなに面白いマンガを持っているのが不思議だ。
思案して、僕も酒を飲むことに決めた。部屋に帰り、夜まで待ち、ネオンと喧騒が匂い立つのを見計らって部屋を出る。
ライブ・ハウス内にあるそのバーは、主食もつまみも日替わりのカクテルも扱っている。入場料を払わないのでライブは観られないが、漏れてくる音と歓声を聴いていると、そうしているだけでも贅沢に思えてくる。僕は昨夜女が発した言葉につられて、初めてコロナ・ビールを飲んでいる。紛れも無くビールを飲んでいるのに、体のほんの一部はテキーラを飲んでいるつもりになっている。不思議な酒だった。
メキシコの酒を飲んでいるのに、僕はこんなにも静的でいる。一年ほど前ここで出会ったあの女と、その日から始めた共同生活は、徐々に僕を静かにしていった。あの頃の僕は、大学を出たばかりで職も無く、郷里の家族との連絡を絶ち、方々を回って露命を繋ぐだけの生き物だった。友人たちは、茶化してか貶してか、僕のことを野良猫のようだと言った。それを明かすと、女は、家猫になる気は無いかと言ったのだった。
その席で、女の素性は大体明らかになっていた。二十歳になる前から、夜の街が好きだった。そこで味わえる最も楽しい時間を探したい。そのためには酔えばいい、抱かれればいい。堅気の仕事で最低限の金を稼ぎ、夜遊びに全身を浸ける、それが気持ちいい……。享楽的な馬鹿の所業だと思ったが、奪われる心配の無い布団に寝られるなら、この馬鹿な女の誘いに乗ってもいい。そうしてその夜から、僕は女の部屋に居座っている。
初めて女が暴力を振るってきたのは、その次の晩のことだった。酔って帰った女は、怒りを隠す素振りも見せず、勝手にCDラックを漁り音楽を聴いていた僕を蹴り飛ばした。肩を蹴られ床に転げた瞬間は、驚きが強すぎて、痛みも恐怖も覚えられなかった。
「それ、絶版になってんのよ! 勝手しないで!」
驚きの余波のせいで理解が捗らない僕にいらついてか、彼女は持っていたバッグで僕を殴った。そのせいでCDケースが床に落ち、傷がつき、彼女の怒りを増させた。
攻撃が止み、彼女がシャワーを浴びだす中、僕は寝そべって天井を見据えていた。
こういう生活がこの先続いていくかもしれない。そう思った。
だから逃げる、とか、それでも寝られる部屋が欲しい、とかという打算も反応も億劫になっている自分をはっきり感じていた。
数日に一回、僕は殴られ、そのうちの数回に一回は血を流す。大体週に一度は流血することになる。一年何かを続けるということはやはり麻痺を呼ぶ。いつからか僕は、その流血を月経のようなものだと思っている。女が女として生きるため月に一度は血を流すように、僕があの部屋の住人としてあの女の同居人として生きる以上、それは必要な流血なのだ。
ビールを三本乾して店を出た。いつまでもいると、はしゃぎ終わった客たちでごった返してしまう。歓楽街とは逆の方向へ歩き出し、部屋に向かう。
自動販売機の下に、野良猫を見つける。やわらかそうに丸い、黒ぶちの奴だった。眠たそうに僕を無視している。僕も同じ呼び名を持っていただけあって、こういう奴には愛着がある。僕は来た道を引き返してコンビニに入り、つまみ用のサラミを買った。自販機へと歩きながら袋を開け、小さな肉片をつまみ出す。かがみ込んで、体勢も変えていない猫にそれを見せる。すると奴は鼻をひくつかせながら近づいてきた。
猫は僕の指を噛んだ。思わず呻いてしまうほど、速く鋭い痛みがした。僕が落とした肉片を咥え、奴は素早く駆けていった。背後から笑い声がする。煙草を吸っている開襟シャツの男が二人、こちらを向いている。僕が振り返ると、二人は緩慢な動作で備え付けの灰皿に煙草を入れ、歩いていった。笑われていたのは、僕の行動なのだろう。
僕は久しぶりに絶望していた。そうしながら、冷静に部屋へ戻ろうと歩き始めた。本当に気が落ちている時には、割と簡単に身動きが取れるものだと、僕は知っている。
なぜ猫は僕の好意を蔑ろにしたのだろう? どうして男たちは僕の悪気の無い動作を笑ったのだろう?
街灯がよそよそしかった。僕は部屋のドアの前で、かじかんだ指で鍵を一度こぼした。
真っ暗に冷え切った部屋で、僕は座り込む。体の末端が痺れ始めているが、頬と胃だけが酔いのせいで熱い。
自分を嘲らないで欲しい、侮らないで欲しい……せめて落ち度の無い時ぐらい、そんな目を向けないで欲しい。誰に向けるでもない呟きが、血中を廻る。酔いの火照りで全身を暖めようと、体を縮める。それでも指先は痺れている。嘲られたことではなく、指が冷たいのが嫌で、悲しくなる。どうしてか、世界のほんの一点での事件から、僕はこれほどの絶望を――。
鍵が開いた。女が帰ってきたのだ。いつも通り、夜半を過ぎての帰宅だった。女は暖房も明かりも点けない僕を殴るかもしれない。
不自然な部屋に怯えてか、女の足取りはのろい。女もまた明かりを点けないまま、ベッドの脇で縮まった僕を見つけた。……ちょっと。女はそう呟いた。呼びかけられた僕は、彼女の方を向く。……泣いてる? 女はそう訊いてきた。僕は自分が泣いているかどうか、正直確証が持てない。血を流しているかどうかを鏡で確かめる生活を続けてきたので、目には出来ない自分の顔をどうこう言うのは憚られる。
女は酔っているはずだが、とても聡明な口調をしている。しらふの口調にとても似ている。
女はコートも脱がないまま、僕を抱き締める。酔いのにおいの後に、香水とシャンプーの香りがして、その奥にほんとうの体臭がある。今日はそのにおい全てが、僕の中にすべりこんでくる。僕はその時、自覚できるほどの涙を流す。自分では女の体に腕も回さないのに、全身で彼女をいとおしく想っている。目をつぶり、部屋の暗闇をいっそう濃くした僕は、コートの襟元のファーに嗚咽を埋め込む。
僕たちは、互いの唇も陰部も重ねたことが無い。ただ女は、僕が弱っている時にだけ、恋人のような関係を演じてみせる。その気遣いと暴力のどちらが女の本懐なのか、僕には分からない。それでも、僕は今この時のような安楽を、善い、と思う。
殴って欲しいわけでも、愛しているわけでもない。僕はただ求めているのだ。
赦してくれるもの。
やわらかいもの。
抱き締めてくれるもの。
そうして僕を慈しんでくれるものを。
僕は猫になった気になる。目を閉じて、絶望という混線が、女によって解かれるのを感じている。僕はのどを鳴らす。女の指が、僕の髪を梳く。僕はこの女の、どこかが好きだ。
冬の上着は寒さを防ぐために、硬い。コートが女の肌を阻んでいる。
【2008/06/20 19:48】
短編モノ
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ぼやけたあこがれ
兄が電車をなくして、僕の下宿を訪ねてきた。コンビニで買ったアイスクリームを二つ、手土産にしていた。袋から察する分には、近くの店で買ったのだろうが、道草がひどかったのかカップが濡れている。溶けそうなアイスを冷凍庫に突っ込み、
「どこで遊んでたんだ」
と訊くが、答えも言わずに、兄は半身を露にして、
「夏だな」
としか言わなかった。八月だからな、と言おうとしたが、無粋だと思い止した。
僕たち二人は別々の大学に通っている。両方の校舎とも同じ地名を冠してはいるが、とても徒歩で行き来できる距離ではなく、通じている線も違う。兄が電車の都合で僕の下宿に来るのは、初めてではなかった。
彼の通う美大はセオリックなイメージを持っていた。奇抜、サイケ、『前衛』、そしてイリーガル・ハイ……。
周囲への順応が早い兄が、そんなところでモラトリアムを過ごすとどうなるのだろう。何かに影響されて、趣味をころころ変えるような人が、そんなにきつい色をしたところで。
あまり歳の離れていない僕たちであるから、仲は悪くない。年齢の差がない分、僕たちは簡単に距離をとることが出来ていた。諍いがない代わりに、激情を闘わせることもなかった。そのために、兄への心配はとても冷徹で、凡庸な心配と頽廃する者を見るスリルが同居するに至った。
シャワーを勧めると、兄は素直に、ありがとう、と言い、浴室に入った。僕は彼が脱いだTシャツを摘まみ、違和感を覚える。暑がって脱いだ様子だったが、少しも汗で湿っていない。湿りはおろか、体温の名残すら無かった。僕は自分の沈黙を意識しながらそれを畳んだ。
シャワーを浴びた兄が、バスタオルを腰に巻いて出てくる。彼が撒いている湿った空気がいやに冷たいのをいぶかしみ、そっと浴室を窺い、タイルを撫でる。湯を流したとは思えない冷たさが指に響く。
彼は水を浴びたようだ。
僕が洗面所を出ると、兄は下着だけを穿き、バスタオルを頭からかぶっていた。
「暑いからって、水を浴びるのは危ない」
注意を受けた兄は、ああ、と簡単に答えた。タオルの奥の表情が気にかかり、居心地を悪くした僕は、飲み物を出そうと冷蔵庫を開けた。冷気にくるまれて、何種類ものボトルが並んでいる。
僕は家の事が好きで、一人暮らしに憧れていた。冷蔵庫や装飾は、文字通り自分一人の生活を彩るようで、それに磨きをかけるとき、それを眺めるときにはとても満足した。
何が飲みたい、と訊こうとした途端、
「あの河越えれば……君と二人きり」
兄がそう呟いた。脈絡の無さに、彼に向けていた不安が、いちどきに脹らんだ。それは何の言葉かと訊ねると、『魔法』という歌の歌詞だという。歌い手を明かさないまま、兄は話を進めた。
「河っていうのは、何なんだろうなあ。どういうものなのかな」
明らかな問いかけの口調に焦る。兄にここまで抽象的な物言いをされたことはなく、返答に困る。僕は「河」を扱ったものを記憶から捻り出す。
「此岸と彼岸って言うし、境界線じゃないの? 吉本ばななとか、そういう話、書いてただろ。ああ、でも方丈記では無常の表現だし、『河よりも長くゆるやかに』なんて漫画もあったな。それは人生の表現か。
自然が為した線引きとか、流れゆくものの代名詞とか……そういうものじゃないかな」
兄は動かない。僕の話に満足したのか、異論を組み立てているのか、理解したかも分からない。自分は人の表情からどれだけ多くの情報を得てきたかを知る。顔が見えないことが、どれだけ会話を暗くするか。かといって電話とも異なる、相手が目の前にいるのに、顔が見えないことの違和。
「河童、覚えてるか」
またも兄から投げられた唐突な言葉を、簡単には飲み込めない。
「小学校の、おれの同級生で……お前も、お前の友達も一緒になっていじめた……」
そう言われればすぐに判る。引っ込み思案で友達がいないその子に、坊ちゃん刈りを由縁についたあだ名が「河童」だった。しかし由縁はもう一つあった。彼は用水路に隠れる癖を持っていた。毎度同じところに隠れるので、意味は全くなく、僕たちは悪口雑言を浴びせたものだった。トンネルのようになった用水路に反響する罵り。反射して意味を喪う言葉の群れを、全て吸い込む暗闇。僕はその暗闇を見て、麻痺していた道徳心を再生させて、それでもいじめの場にいる自分が恐ろしくなっていた……。
「あの頃からお前、ずるかったよなあ」
兄の呟きは正鵠を射ていた。いじめの非道を叱られた僕は、兄が一緒だったから、という言い訳で説教から逃れたのだ。自覚していたことだけに、僕はそれを何気なくはぐらかそうと出来る。
「何がだよ」
「叱ってる訳じゃないんだ、褒めてるんだよ。そうやって立ち回れるのを。おれを教訓にしただろ。
河童をいじめてたときも、おれが叱られてたときなんかも。羨ましいよ、実際」
「下の兄弟ってのは、皆そういうもんだぜ」
「でもお前、おれのこと本当に好きだったよな。だからおれから色々学べたんだろ」
僕は否定しない。あるときまで兄に過剰なまでに惹かれていたのは事実であり、その感情は死んでいないからだ。
両親が不在で、二人きりの食卓。兄は僕の服についていた糸屑を摘まむと、それを宙に浮かべた。僕は触ることも出来ず、兄の真剣な面持ちに中てられて、灰色の糸が浮遊するのを只管に見つめた。超常を目の前につき出された衝撃は、兄を自分から少しずつ引き剥がしてゆき、べったりだった僕は兄に付きまとうのも、兄の友達に取り入ろうとするのも止めた。兄は恐ろしく、そして魅力的な人間となった。それが、僕が小学校に上がったばかりの頃で、僕たちはそれ以来一定の距離を隔てて生きてきたのだ。
最近になって問い質すと、あれは納豆の粘りで糸を下げていただけだ、と笑われた。その不細工な魔法の正体を知っても、兄への尊敬は揺るがなかった。むしろ悪戯の姿が見えたせいで、兄にくっ付いていた頃の事を思い出した。誰かに叱られるのも恐れず、仲間と背徳を楽しむ彼の笑顔に憧れて、自分もかくありたいと思った事、自分の仲間にもそれを求めた事、その憧れの対象が家族であった事。
「河のことを考えると……お前の事も浮かんでくる。お前まで巻き込んで耽った、下らないいじめのこととか、お前を河に落としたらどうしようって怯えとか……どうしてか、河を思い出すと……」
「落ちなかっただろ? 兄貴も僕も」
「ああ、落ちなくて良かった。でも、そんな突拍子もないことばっかり、ガキの頃は心配していた」
さっき言った歌聴いて、それを思い出したんだ。そう言って、兄はタオルを頭から外した。彼の表情はいつもと変わらなかった。短気だが穏やかな貌をする人で、生活を共にしていないと、僕は彼の短所を忘れた。この貌だから、この貌が出来るから、きっと仲間を作れるのだろうと思う。僕が惹かれたのも、この貌だった。友達の親しさと年長者の権威の両方を具えた表情だ。
何を潜めているか判らない、魔法使いの貌。あの浮遊のようなまやかしを生み出して、僕を魅惑する者。あの瞬間の衝撃を思い出し、僕は彼の魔法を想った。
「本当に暑いな、アイス食べよう」
兄がそう言うので、僕はつい開けっ放しにしてしまっていた冷蔵庫のドアを閉める。兄は近づいてきて、冷凍庫の扉を開けた。
「アア、涼しい」
気持ちよさそうな声を上げた兄は、頭を冷凍庫に近づける。そして一瞬、足に力を込めて、全身をその中に投げ出した。彼は小さな冷凍庫に吸い込まれていった。
慌てて僕がその中を見ると、二つのアイスのうちの一つがなくなっていて、兄の姿もなかった。
彼は僕が好きな味のアイスを残していった。彼らしいと思った。
【2008/05/23 12:10】
短編モノ
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エトランゼとデラシネ
椿の花が落ちるように人が死ぬ時代が来る。
故郷を捨てた男はその理を信じている。彼は金を持たない。女は夜毎に変わる。行く街には知らぬ女がいて、去る街には捨てた女がいる。それだけで良い。絆はきれぎれであれば、単なる美しい装飾にしかならない。そう思っている。
男は成人を認められる前から行脚を始めた。溌剌と乱れた若さが収斂し、老いの兆しが僅かにさした容貌は、よくまとまった美しさを見せている。ある女は輝いていた若さの残滓に惹かれ、ある女は行脚の労苦が織り上げた濃厚な老いに魅せられた。彼を目にした女の殆どは美しいものを見た気になった。男色家も同様だった。
男はある夜、気付く。全ての地を踏んだことに。世界唯一の大陸を、何年も歩き続け、彼は訪れていない地をもう持っていなかった。
宿をとる気が失せた男は、疲れを無視して路を歩く。彼は旅路の中で初めて、眠りながら歩いた。
瞼を上げると、虚無の中にいた。足は地面の感触を失っていた。吹く風や草木の匂いはゼロという大きな存在の核へと吸い込まれていた。それでも男の体は進んでいる。どこへとも知らず、歩んでいるつもりも泳いでいるつもりもないのに。
それに付き添う女がいる。男はそれに気付き、行きずりの女を口説くのと同じつもりで話しかける。
ここは?
どこ、と言えるだけ、ことばはすぐれていない。
どうしてぼくはここに?
おろかだから。
君は誰?
創生の女神でもあるし、死にかけの胎児でもあるし、芸術家を目指す遊女でもあるし、拒食症のおぼこでもある。
どこへ向かっているの?
加速こそしているけど、まだ決まっていない。
ぼくの問いを、予め?
予め知っている。
それならもういい。
なら教えて。
どうぞ。
死が蔓延するのをどうして信じるの?
「露悪になるよ。
ぼくは戦災と疫病が駆逐の渦を成している地に生まれた。両親も兄や姉たちも、ごく自然に死んでいった。ぼくは生き残った。なぜだかね。手足が腐ることも無かったし、銃弾や砲弾は、ぼくを捉える前に止んだ。ぼくは墓を作った。探せば探すほど屍は見つかった。埋めたり燃やしたり、その時々に思いついた手段を使って、弔いのイデアを見つけようとしていた。食べず、飲まず、眠らずにそうした。そんなに屍に触れていりゃあ、自分の生鮮な部分なんか止まってしまう。
ぼくはあれから何も食べてはいないし、眠ってもいない。それなのに成長はしている。恐らく死にながら生きている。そういう状態で、君、暮らしとかを保っていく気になるかい? ならないだろう。そうなってみれば分かる。空虚であるということは、さわやかなあきらめが内蔵になっていることを示すんだ。感情なんていうのは、内臓や体液が温かないきものだけが持つものだよ。
面白いことにね、空虚はどれだけ取り除いても尽きることは無い。むしろうつろであることが確かになってゆく。そこに何かを注いでもらうべきなのに、ぼくは自分の空虚をばらまこうと思った。会話して、まぐわって、別れることで。
この空虚を押しなべてしまえば、人は皆、うつろな想いの苗床になる。ひとのだいたいは奪いたがりさ。空虚を奪うとどうなる? 奪ったものは空虚自体を手に入れるし、奪われたものは空虚を喪った分だけ空虚になれる――」
無限のマイナス。逝きゆく《死》それ自体。
「――ひとは、無限の喪失の中で、〈ただそれをするだけのいきもの〉になるんだ。ただそれをしているだけでいい、そういう生活が、どれだけ乾燥しているか、きみ、分かるかい? 分かりたくない?
ぼくはそうなりたい。ひとがどう思うかまで考えられない。ぼくはすべてのいきものが屍に見えるんだよ。思いやるなんて、できないよ。
……でも……君は……そうでもないな……」
男と女が在る虚無は膨張していた。男の知覚がそれに侵食される。女は予め感官の全てを喪った生命だから、ただ男のそばにいるだけしか出来ないし、それでいいとかいけないとかいう判断を持っていない。
男は女に手を伸ばそうとする。しかし一刹那の衝撃によって静止を余儀なくされる。
膨張する虚無の中心点にありながら、男の脊髄の全体から伸びたねとつく糸が、虚無の表面に張り付いている。膨張する虚無と男は接続してゆく。男の眼は人間の第一感覚としての役割を忘れ始め、この世にある限りの色を認識していく。全ての音楽も全ての酒も全てのペニスも全てのヴァギナも、ただ、色という配列で男に入り込んでくる。男は自分の内蔵が灰色であることを信じていた。色の奔流は男のからださえ満たし、灰色であるはずの内臓を染め上げる。男は感情を嘔吐する。虚無の中にそれが飛び散る。女はそれを汚いとも思わず、美しいとも思わない。男の脊髄から逃れ、男を見つめている。
男の意識は爆縮する。広がり、広がり、そして広がる虚無の中で、男の意識は小さいものになってゆく。それは破砕されるのか、それとも拡大のためのプロセスなのか。女は恐らく知っている。
虚無はいつしか膨張を止める。男の脊髄はついに膨張を追いきった。
一応形状をなしていた虚無は限界を無視できる存在である。
風船が割れるように虚無は破裂する。虚無の中に満ちていた虚無が散じていく。稀薄にはならず、〈そこにあった分が伸ばされてゆくのに、そのままに濃い〉。
男の脊髄が虚無へと融解していく。男は小さな小さな意識が脈打つのを聴こうとしている。意識の拍動は、鮮やかなスペクトルとなって男に届く。男は安堵する。なにか恐ろしいものから解き放たれた心地になる。
女はそれを見ている。背中から虚無に侵食され、ゆっくりとほどけていく男を見つめている。女はそっと男の右頬に触れる。
男はその刺激には耐えきれなかった。無理やり凝固しようとしていた虚無と感情が刺激に暴れて、押し固められた意識の結晶を砕いた。
男は苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。
女が触れた箇所から、結晶が解かれて液化した意識がこぼれる。意識の液は虚無に溶ける。男の感官は、それを「痛い」と思う。
依然、色に支配される男の眼には、ただ痛みが映る。傷の痛みではない。病の痛みでもない。それは痛みの純粋な信号。
強い、強い痛み! 白熱する惑星の爆発の瞬間、一秒二十四こまの殺人、魂の褪色!
男は痛みに苦しみ、虚無の中に叫びを木霊させたはじめてのいきものになり、女は虚無の魂として、絶対の不可視物へと自分のからだを配列しなおした。
男はこの時二十八だった。その時間に見合った分の静寂を経た後、右頬に女の指の感触を残して、二千二百六十六字前の状態へ戻った。
【2008/03/09 12:25】
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ルナティック・ジュヴナイル
カイは緊張のせいで、大嫌いなはずの消毒液のにおいも忘れながら、弟か妹の誕生を待っている。分娩室に入る母は苦しがっていた。自分や父の声を分かりながら、反応を示せないようだった。自分を産んで十一年も経っていれば、苦しみの記憶なんて忘れているだろう、とカイは考えた。
父は父で、男の不甲斐無さに苦しんでいる。カイはそれを見ていると冷静になれ、次第に、待つしかないのだから、と開き直り始めた。父はカイの素振りを見て、お前はかっこいいなあ、やっぱり男の子だな、と言った。悪い気はしなかった。
トイレに行ってくる、父さんも変に心配すんなよ。カイが精一杯くだけた口調を使うと、父は笑った。日頃の穏やかさが戻った表情だった。
用を足して廊下に出たカイは、落ち着きのせいで消毒液のにおいを感じられる。注射や身体測定、記憶をこの上なく直接的に浮かび上がらせるにおい。赤ん坊の頃は病弱で、身長は今でも小さいカイには堪えるにおいだった。
しかし、面倒な記憶の滾りはすぐに終わった。カイの目に、においを忘れさせるものが映っていた。
廊下の端で、膝を抱えてうずくまっているのは、恐らくハルアキだった。
ハルアキは万能な小学生だった。同じ年頃の子供が願うものの全てを備えていた。高い成績と運動神経の同居、割合整った容姿、裕福な家庭、そして何より、周りから好かれる人柄。彼は眼鏡をかけていた。何人かの女子は「ハルって眼鏡が無きゃ完璧だよね」と話していたが、ただ一つ瑣末な欠点を持つことが愛嬌になるのだということは、誰もが無意識に悟っていた。
そんなハルアキが交通事故に遭ったというのだから、彼を気遣う噂は急速に広まった。彼の母親が運転する車に違反車が突っ込んだ、という真実は全く捻じ曲げられなかった。ハルアキのケガは軽いという情報も広まり安堵を呼んだ。だがその車に彼の兄弟も乗っていたこと、彼らのケガがとても重いということを、ハルアキの同級生はあまり知らない。
カイは噂をそこまで知っている数少ない同級生の一人だった。
属しているグループが違うため、カイは声をかけるのを少しだけためらった。だが、ピクリとも動かないハルアキを放っておけず、ゆっくりと近寄って「大丈夫?」と囁いた。ハルアキは顔を上げる。眼も頬も赤らんでいて人相が違っている。カイは(軽いケガだなんて、嘘じゃないか)と思った。だがそれは、ハルアキが泣き続けているためだと気付いた。そう気付くまで、彼が今なお涙を流していることにも気付かなかった。何でだ? カイがそう不思議がる間に、ハルアキの視線の焦点が定まった。いきなり恐怖を浮かべたハルアキは、猛然と走り出した。
走り出す瞬間のハルアキは、嗚咽を響かせていた。カイは両親のことも自分の弟妹のことも忘れて、ハルアキを追った。
二人は階段に駆け込んだ。ハルアキは眼鏡を取り、涙を拭う。もう一度眼鏡をかけようとするが、走りながらそこまでの動作をやり切るのは難しかった。つまずいて、階段の途中に倒れこむ。追いついたカイは彼を助け起こす。ハルアキはすぐに助けの手を振り払い、泣きじゃくりながら眼鏡をかけ、階段をのぼっていく。足が痛むのか、追いつかれて開き直ったのか、歩みはのろい。カイは止めるべきタイミングも、止めるための言葉も失い、ハルアキを気遣いながらついていこうと決めた。
二人は階段をのぼりきった。屋上へのドアは鍵が閉まっている。それを確認したハルアキは階段をおりる。涙こそ流していないが、涙の理由を解決できていない苦しみを、カイは見出した。
ハルアキが何気なく入ったのは空の病室だった。カイは一応表札を見てから入ったが、ハルアキの意識の乏しさを、そろそろ「恐い」と思い始めている。何を考える風でもなく、転んで打った足を引きずるようにして歩く姿は、カイが知っている彼の姿のどれとも似ていない。彼の今の姿と似たものを思い出し、カイは戦慄した。今の時期、通学路に現れがちな浮浪者、にやにや笑い、ぶつぶつ呟き、よたよた歩く人型の怪物……。
ハルアキは向かって左端の窓を開ける。窓は横にスライドするのではない、縦に傾く形でしか開かないものだ。だいぶ難儀して、彼は傾いた窓を固定し、そこから外に出ようとした。
「ハル!」
思わず叫んだカイに振り向き、ハルアキは笑った。そして左へと身を傾け、窓という視界の外へ逃げた。
カイが窓へと走り寄るときには、ハルアキの体は全て外へ出ていた。
ハルアキはハシゴをのぼり始めていた。屋上へのドアが不具合を起こしたときのために、屋上に上がるためのものだろう。壁面には簡素な足場もある。ただ、四階の高さともなると、本能に訴える恐ろしさを生む。カイはたじろぎ、ハルアキを追うことができない。
(ハルは今、ぼくを疎んでるじゃないか。それなのに追いかけたって、何を助けられるか分からない。第一、弟か妹が生まれそうなときなんだ。大して仲も良い訳じゃない同級生追いかけて、ぼくは……)
カイは迷っていた。平常でないハルアキを、放っておくべきか、構ってやるべきか。どちらかが正解なのだと信じるカイは、まだ幼い。
カイの心が決まる。彼はハルアキに倣って外に出る。足場は網になっていて、僅かに下の様子が分かる。網に遮られて細切れになった情報を捉えると「それならいっそ」という反射が生まれ、カイは地面を見下ろした。まともに捉えた視界は、かたちにならない落下の恐怖を、かたちにならないままカイにぶつけ、カイは思わずしゃがみ込む。屋上からは、ガシャガシャという音が響く。ハルアキがフェンスでも乗り越えているのだろう。カイは、フェンスまで越えなきゃいけないのか、と弱気になる。
それでもすぐにカイを奮い立たせるものは、初めての野心だった。
屋上に出たハルアキは、うずくまるのも忘れて、目をつぶりながら夜空を仰いでいる。さっきまでは、兄弟が昏睡していることにまつわる感情で泣いていた。だが今は、カイにその様を見られたことが苦痛になっていた。ハルアキは自分のことを評価する力をまだ持っていない。その代わり、人々がそれぞれの感覚で自分を評していることを早くから知っていた。自分が割と美しい形で見られていることを、彼は知っていた。
そんな自分の無様なときを同級生に見られる苦痛。ハルアキはそれに喘いでいた。
カイが恐怖に勝ってハシゴをのぼってくる。ハルアキはカイが身を乗り出してくる前から「来るな!」と叫んだ。その叫びには全く反応せず、カイは屋上へと上がり、ハルアキと同じようにフェンスを越えてきた。カイはへたり込み、恐いねえ、と泣き笑いの顔になった。
ハルアキは、不意に癒された気になる。おれの醜いところを見ないでくれ、とうまく言えないでいるのに、カイに全てを悟ってもらって「気にしてないよ」と許されている気になる。カイはハルアキに声をかける。
「ハル、ケガが痛むの?」
それとも、と言って、カイは言葉を止めた。それとも、に続く言葉の中身を、ハルは分かっている。自分の兄弟のことだ。確かに自分は、兄弟のことで泣いている。けれど泣きながらでは、うまく意思を示せない。ハルアキは充分な間をとって頷くことしかできなかった。
「お兄さんたち、ケガ、重いんだね? まだ眼が覚めてないんだね?」
カイの疑問符のつけ方が、とても優しい。ハルアキは、初めてカイをじっくりと見つめる。今までの会話の乏しさもハルアキ自身が示した拒絶も諒解しながら、それでもハルアキを気づかう泣き笑いの顔。おれはどうして今まで、こんなに優しいこいつと話さなかったんだろう、こいつを邪険に扱ったんだろう。
「おれは……」
ハルアキは謝ったり礼を言ったりしたくて、必死に言葉を探った。そうしているうちに、彼は言うべきことではなく、言いたいことを言ってしまいたくなった。礼を欠いてはいけない、いけない。そう思いながら、
「おれは後ろの座席の右側に乗ってた」
ハルアキは衝動に抗えなかった。
「あの車は左から突っ込んできたんだ。たくさんの種類のもの、ガラスとか車のボディとかが壊れる音がいっぺんにした。おれの隣に乗ってた兄貴と助手席の弟は直接衝撃を受けて、頭から血を流したまま、まだ起きてない。見舞いに入れない、ガラス張りの個室にいるよ。
母さんは二人を心配して泣いてばかりいる。おれも心配だよ。だけど」
ハルアキの顔は、また盛んに涙を含み始める。
「ほんの一回でいい、おれのことも、気にして欲しい……」
ハルアキは立ち尽くしたままうつむいて、また嗚咽を始める。涙の分泌や喉と鼻の震えといった反射をするためだけの生き物になるような泣き方だ。ハルアキは人前でそうして泣いたことが無かった。苦しいから、哀しいから、情けないからそれを明示する。しかし下手な慰めはしないで欲しい、けれどこの責め苦から自分を救って欲しい、そういう感情が次から次へ現れ消える。泣くという行為がここまで自分勝手だと、彼は知らなかった。
人並程度には、そんな泣き方を知っているカイは、ハルアキの背をさする。背が低いカイは、ハルのうつむいた顔を自然に覗き込んでしまえたが、してはいけない、と思った。
「ごめんね、触ると、うっとうしいかもしれないけど。
あんまりケガしないで良かった。ハルが生きてて良かったよ」
ハルアキは顔を上げ、カイは濡れた瞳の上を、月光が滑るのを見た。
二人はやたらに強い光を感じ、空を見上げる。そして驚いた表情を見合わせて、先ほど乗り越えたフェンスに飛びつく。
巨大な満月だった。
やや黄色く光る月の肌からは、その色とは似つかない濃く青い光が放たれている。二人は月そのものを美しいとも勿論思ったが、自分たちが眺望する景色の全てがひどく美しく感じられるのを不思議に思っている。それは影のためだった。強い月光は、汚く点滅する電灯の光とは違って、ちっとも揺らがない。そこに生まれる影は、いつもよりはっきりと凝り固まっている上、青い大気とばっちり噛み合っているのだ。
「でっかい照明だね」
カイはそう呟いた。月の光は強すぎて、その周囲の空だけ暗く沈んでいるように見える。それは電球と傘が作る光と陰影にそっくりだった。そうしてみると、見下ろす街並は、自然光とは思えない強さに彩られた精巧な箱庭のようだ。二人はそれを映すレンズだ。
「おれらは、カメラだな」
カイは、うん、と言った。二人はそれぞれ、写真を撮るカメラだろうか? 映像を撮るカメラだろうか? と考えた。ただ、妖しいまでの光に包まれて、おっかなびっくり会話するこの危うい時に水を差せるほど、彼らはまだ親しくなかった。
二人はじっと月を見ていた。しばらくして、女の泣き声が院内に響き、二人の耳にもかすかに届いた。ハルアキはそれが母親のものだと気付き、カイも何となくそれを悟った。心配するカイに、ハルアキは首を横に振った。ハルアキは、兄弟のどちらか、もしかしたら二人ともが死んだのだろうと感じた。それでも月と夜の風景から、まだ目を逸らしたくなかった。涙はもう出ない。だが、以前よりずっと静かな哀しみが胸を浸した。
それからしばらくして、赤ん坊の泣き声が響いたが、カイはハルアキの顔を見て、ここにいる、と言った。ハルアキの静かな哀しみは少しだけ弱まる。
次第に二人を探す声まで生まれ始めるが、その頃には月は雲に隠れ、二人は寄り添って眠っていた。
二人はそれ以後、別段仲良くなる素振りは見せなかった。ハルアキは泣き顔を見せたことをやはり恥じていたし、カイは「ハルを助けられたら」という野心を不遜に思ったからだ。
ハルアキの兄弟は死んでなどおらず、母親の泣き声は、彼らが昏睡から覚めたためだった。カイには弟が生まれた。
ケガも癒えて家も落ち着き、ハルアキは学校に通い始め、同級生に祝福された。カイはその中の、ただの一部だった。日々の中で、運動会でも修学旅行でも、二人は今まで通りの距離を保ち続けた。
二人の視線が合ったときに、微笑が交わされていることは、誰も知らない。
もしかしたら月は?
【2008/03/09 12:25】
短編モノ
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シトロン
鮮やかな雨に、坂道が濡れている。毛を湿した茶色の犬はその坂を上ってゆく。濡れることにも寒さにも興味を持たない貌をしている。犬は雨宿りの必要を感じていないのかもしれない。
傘の無い私は濡れる必要を感じている。夏休みを前にして、今夜設けられた酒の席に行きたくないと思いながら「雨滴の間隙を縫えるほど小さな生き物になりたい」と、そればかり願っている。制服が水を含むほど、望んでいる状態に近づけると信じている。
犬は遠ざかっていく。爪がアスファルトを弾く音が、徐々に小さくなっていく。犬は雷鳴にすら反応しない、万能なワンダラーだった。
重たいプリーツ・スカートは枷そのものだった。スカートの襞ひとつひとつに、約束という小さなフックがつけられて動きを封じられている気がする。私は枷を忘れようと足を止め、雨空を仰ぐ。雷を孕んだ雲は、激情に泣き喘ぐ子供のように、狂的な可愛らしさを具えている。私は待っている。あの中にある激情が、私の肺腑も貫いてしまうのを。世界のほんの一部から生まれる、発光するエナジーに滅ぼされてしまいたい。
私は坂の上へ走り出そうとして、革靴の底を滑らせて、痛烈に転倒する。膝を擦りむき、たちの悪い痒みに似た痛みを確かめ、視認はすることなく、また走り出す。ステップするたび、傷口が疼く。私はそれをねじ伏せるように走る。痛みは徐々に疲れに雑じっていき、足全体の質感の中に溶けてしまう。運動によって体が揺さぶられ、痛みはいつの間にか、全身に均等に流通している。雨滴が目を刺す。視界がぼやけてゆくほど、幼い頃、海で溺れ死ぬことに憧れたのを思い出す。波濤の根へと飲み込まれながら、四肢を捥がれたい気持ちが心の中に波立ったのを思い出す。今、一時の感情の揺らぎだけで、心という器を内側から砕いてやりたい。
坂の上には神社がある。小さな社を囲む木々は、和菓子細工のように美しい葉を下げている。温い雨に磨かれた葉の密集に、私は全てを忘れて立ち止まる。
淡い黄緑色をした香りが鼻を掠めた。それに気づくや、網膜に黄緑色が濃くなる。柑橘類の香りだった。葉の美しい木々の中には、何か酸っぱい実をつけるものがあって、慈雨によってその個性をきらめかせたのかもしれない。
私からは何かが香るだろうか、この鮮やかな雨に濡れる私からは。酒など飲んでは、濁った臭いを出してしまう気がした。今、潤った肌から、雷鳴のような音波を出してみたい。感情そのものを匂いにしてみたい。私は何かを吐き出したくて、精一杯に吼えた。高台から、住宅地を薙ぐつもりだった。耳障りな高音に、のどが痛んだ。その叫びは地を這い、最高速に達すると上昇した。
眼に見える限りの街並から、幾百もの傘が舞い上がった。それは歩行者がさしていた全ての傘だった。黄緑色の香りは私の声によって走り、盗まれた私の傘を掠めたようだった。
【2008/02/20 21:29】
短編モノ
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