lunatrium/fabula cella
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    「俺さ、待ってる時間が好きなの」
    「何を?」
    「いやね、待ち合わせでもこうやって注文の間でも。
    何かが誰かが来るのを待ってるのがスゴイ楽しい」
    「そうやって受験勉強もしなかったわけだ」
    「…」
    「キミはさ、努力が出来ないタイプだってわかってるの。
    でもいざって時に出来るタイプだって思ってたの。
    ちょっと幻滅してるよ。この冬から」
    「…でも受かったわけだしさ。浪人は免れたんだし」
    「それがムカツくの。何で私の第一志望でキミの滑り止め程度の
    学校に受かって満足してんの?おかしいでしょ。
    …キミには頑張って欲しいの。奇人なんだから」
    「キジンって」
    「奇人じゃん」
    「…」
    「キミは才能あるよ。だから新橋さんって人から話来たんでしょ」
    「いい話だとは思うけど、オレああいう器じゃないよ」
    「だからそれ止めて」
    「何が?」
    「待つの好きなんでしょ?待ってた機会が来たんだから頑張ってよ。
    いいじゃん、あんな大きなバンドのロゴ作るなんて。凄いじゃん。
    お願いだからさ。私に見えないところでいいから、頑張ってよ」
    「…」
    「…才能、あるんだから」
    「…無理だよ」
    「は?」
    「お前に見えないところでとか言われてもさ」
    「いいからさあ、頑張ってって」
    「お前がそばにいないと意味が無いよ」
    「…」
    「待ってて一番楽しいのは、お前だから」
    「…それで学校決めたの?」
    「…ちょっとそういうモチベーションはあった」
    「バカ」
    「うん」
    「バカ」
    「頑張ります」
    「頑張れよ、バカ」

    【2005/05/26 11:21】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |

    KICK ASS
    右足首捻挫が、今学期始まって以来の悪夢だった。

    同学年九組の、名前は忘れたけどいつもハイテンションで
    男子の一部の笑いを取るために歯に衣着せない下ネタを連発する、
    女子ドン引いてんのに気付いてないあいつのせいだ。
    いつもの通りクラス一丸となって体育に挑み、五月のくせに
    クソ暑い中俺たちは汗だくになってサッカーをした。
    俺の、カカーもびっくりな冷静極まるボール回しの甲斐あってか
    我がクラスは宿敵・四組を下し、意気揚々と教室を目指していた。
    ダルそうに階段を上っていると、あいつがバカみたいに笑いながら
    駆け下りてきた。誰かを怒鳴り散らしながら走るあいつは
    階段を踏み外した。今思えばかわせたかもしれないのだが、
    不覚にも滑稽な気持ちが満ち満ちて、反応が遅れた。

    あいつは俺に衝突しながら無傷だったが、俺は階段の中程で横転して、
    下まで転げ落ちた。右足は熱くて痛かったが、俺は頭も打って
    まぶたの裏がライトアップされてしまったので、意識を保つのが面倒くさくて
    寝てしまった。気付いたら保健室に運ばれていた。寝ていたのを保健医に笑われた。
    俺はその場でアイシングを受けていた。すぐあとに人の良い担任が
    見舞ってくれたが、案の定二年生の古文の授業を忘れてこっちに
    顔を出していて、急いで職員室にとんぼ返りした。
    昼休みになって、二年の時の担任だった八岡が来た。
    思えばあいつの担任だった。もちろんあいつのことも連れてきたわけだが。

    「え、その場でヤったの?」
    「バカ、ハチオカの前で出来る訳ねーだろ。出てった後だよ」

    あいつはジュースを買ってきてやる、と俺に告げ、奢るから許してな、
    と返事も聞かずに駆け出していった。保健医は呆れていたが、すぐに
    用を思い出したらしく職員室へ向かった。
    あいつは程なく帰ってきて、俺にスポーツ飲料を手渡した。
    俺は何も言わず、座っていたソファにあいつを押し倒し、
    友達が持ってきてくれた自分のバッグをまさぐった。

    「で?」
    「ちょっと脅して…」

    俺は自分のタバコを取り出し、握り潰した後であいつの口の中に入れた。
    すぐに吐き出して、俺に暴言を吐こうとしたが、ゲンコツをデコにぶつけて制した。
    「二度と俺の前でチョづいてみろよ、致死量のマル金食わしてやる」
    平手で頬を叩いて、力を抜いた。あいつはすぐに飛びのいて、
    ビビりながら俺の顔を見た。背を見せてドアを開けようとしたが、
    引くドアを押してもそれは開かない。何だかムカついて、
    足元の冷たい缶をぶん投げた。肩胛骨の下あたりに命中して、
    あいつは呻いたが振り向かずに去っていった。俺は缶のタブを開けると、
    ちょっと躊躇ってから一気に胃が冷やされるのが分かってきたくらいまで飲み干した。
    それから唾液でべとつくタバコを、埃でいっぱいの棚と壁の間に放った。

    だいぶポップショービットが上手くなってきたタカミチが、
    練習の手(足)を休めて近づいてきた。
    「相変わらずヤツキはイルだねえ、血は何色だよ」
    赤だよ、と憎たらしい「北斗」のネタは流して、
    「オーリー足捻挫ですよ。癖になったらどうしてくれんだって話。
    前々からムカツいてたし、あいつ。…太一、あいつ名前なんてえの?」
    ずっと横で話を聞いていた太一が吹き出した。
    「え、何お前―――名前も知らずにヤキ入れちゃったんだ?」
    俺はカーゴパンツのポケットからタバコの空き箱を出して、
    ゴミ箱目掛けてぶん投げた。見事に入った。
    「あいつはアレだ、館だよ。タチ」
    「タカだっけ?」
    タカミチが横から口を出す。
    「は?」
    「あれ、ユージ?」
    「え、お前何言ってんの?」
    太一はよく飲み込めていないが、俺も舘ひろしがタカだったか
    ユージだったか覚えていないので、口を出すのは止めておこうと思う。
    タチは俺のことを吹聴するんだろうか。
    受験生になってそういうことを評判されるのは、ちょっとなあ。
    と考えていたら、口の中がサッパリしすぎてどうも落ち着かない。
    まだ論争を続ける二人に割って入る。
    「タカミチ、タバコ買ってきてくんない?」
    「あー、いいよ」
    俺は六百円を渡す。
    「何かジュースも買ってきて。お前も一本買ってきていいから」
    「おっ、豪気だねエ」
    江戸っ子みたいな口調で、タカミチはボードを置いて歩き出した。

    早く足を直したい。どうしようもなくスケートがしたい。
    モノに出来たはずのハードフリップ。きっとまた滑る頃には
    出来なくなっているだろう。けど、そんな苦労を、早くしたい。

    「ヤツキー!何と何買ってくるー?」
    タカミチが不審者のごとくデカい声で俺に叫ぶ。
    「マル金とォ、ダイエットコーラァ!」
    「コーラと何つったー?!」
    タバコの銘柄が聞き取れなかったようで、聞き返してくる。うるさくておかしい。
    「マルボロのォ、ライトー!」
    「あいよォ!」
    いきなり太一が耳元で大声を張る。
    「それと、おしるこー!」
    「黙れ、死ね!」
    太一に対して、あまりに冷たい反応をとってタカミチは歩き出した。
    「ヤツキ志望校決めた?」
    太一は恐ろしく低い偏差値をコンプレックスにしだしている。
    「とりあえず遊びに行きやすい場所がいい…」
    「とりあえずドコ狙い?」
    「Rとか」
    電車で一本だし、都心にも近い。
    「はぁ?!」
    そりゃそう言うだろう。ウチみたいなちょっとバカな高校のやや素行不良児だ。
    けれど実は担任にも「お前なら頑張れば行けるレベル」と
    こんな早い時期から言われている。だから頑張ろうとも思う。
    「いや、でもヤツキ実際アタマ良いもんなぁ。四月の予備校の模試どうだった?」
    「点数?」
    「じゃあ、偏差値」
    「…英語54.8、国語55.5、日本史58.7?…6?」
    ホントかよ、と太一はヘコんだ。
    今の段階で偏差値がどうの言ってもどうしようもない。
    太一は数字だけ見て嘆いている。
    三教科の偏差値平均が50台後半だからなんだってんだ。
    それで秀才か。知ったこっちゃない。
    古文の単語帳も日本史の参考書も、買って一週間手をつけてない。
    折角の日曜に、大事な大事な、マイメンと公園に来ていて、
    晴れてる割に暑くなくて、風がある割に寒くない。
    素晴らしい日和だったのに。太一に、彼に一番似合わないトピックを提起された。
    太一には悪いが、勘弁して欲しい。
    俺にとって今一番重要なのは捻挫の早期治療とハードフリップの復習だ。
    「太一は?模試」
    「言えねー。恥ずかしくって言えねー」
    惨憺たる出来だった、とそういえば結果発表交付の時に言っていた。
    太一は一言、いいなぁ、と呟いた。
    「太一さ、何で偏差値高い学校行きたいの?」
    太一は返事をしない。こっちが恥ずかしいから続ける。
    「アタマいいくせして社交性ない人間とかいるじゃん。
    俺らの色抜けた髪とかピアスとか、見るだけでとか、
    スケーターってだけで見下す人間いるじゃん。あいつらみたくなんなきゃ
    困ることなんか何にもねえよ。ていうかアタマ良いって何だよ。
    アンリみてえなアタマの形してないって訳じゃねえだろ。
    六法全書暗記したり、相手のアラが見つかる目ぇ持ってるってことでもねえだろ。
    バカやって面白い時にバカ出来て、黙るべき時におとなしく出来りゃ
    アタマ悪くねえんだ。それでいいはずだろ」
    何だかフラストレーションが、実は結構大きかったみたいだ。
    でも言ってみて気付いた。
    今のは、俺が言ってもらいたかった言葉だ。
    太一は、ごめん、と漏らした。顔を見たら、困りながら微笑んでいた。

    「ほい」
    いつの間にかタカミチが戻ってきていて、俺にタバコとコーラをくれた。
    タカミチ自身はコーヒー、と、おしるこを持っていた。
    「オラ、太一」
    よく振れよ、とタカミチはおしるこの缶を太一に渡した。
    「いやあ、自販機のルーレットで当たり出したの俺初めてだよ。
    感謝して飲めよ太一。俺の幸運に。Thank my fortune,you nahmsayin?」
    俺が笑うと、太一もちょっと笑った。
    俺はコーラと一緒に渡されたタバコに火をつけて、煙を吐いた。
    それはマルボロ・ライトではなくてマルボロ・メンソールだったけれど、
    太一と一緒に、タカミチの幸運に感謝したら、どうでも良くなった。
    おしるこの匂いとマルボロの煙は、合わないと思った。

    【2005/05/12 22:29】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |

    夜は優しい
    「帰んねえの?」
    夜も九時を回れば、夏が近くても前は暗い。
    駅の明かりはとてもチープで、ぼくたちは邪険に修飾されている。
    朝の学生服の群れが持つ、体温の渦も電車の余熱も闇に薄まって、ぼくたちには
    肌寒さだけが差し込む。ぼくたちはワイシャツと、その下のTシャツ、
    それぞれ市立高校の制服のズボンとスカートで熱を保ち、姿勢も保持する。
    ヒイラギは随分前、まだ空が青かった頃にすぐ後ろの自動販売機で
    レモン味の飲み物を買ったが、プルタブも開けずにずっと指だけで持っている。
    ぼくはその時に、彼女に倣って甘ったるいミルクティを買った。
    彼女のペースに合わせて飲もうと思っていたがこんな有様なので、
    ちびりちびりと口をつけ、ついさっき缶を空にした。
    彼女の顔を、数時間見ていない。いや、数十分か。
    ぼくが紅茶の缶を開けた時、その音に振り返り、眼が合った。
    特別な表情はしていなかった。
    彼女は綺麗な姿勢で立っている。ぼくたちは、数時間同じ構図で動かない。
    彼女は足早に学校を出て、駅に入り、自動改札に小振りな電子カードを叩きつけて、
    ぐんぐんエスカレーターを上っていき、今立っているところに張り付いた。
    自販機に近づいて以来、ぼくらは動いていない。
    原因はわかっている。それぐらいしか想像出来ないだけだ。
    梅雨は束の間小休止して、ぼくたちは久しぶりに、放り出されたような
    底抜けに青い空を見た。その青が、あんまり深かったので、
    ぼくは彼女に告白した。
    もうどうしようもなかった。

    友達と話し、よく笑うヒイラギをぼくは見ていた。そのくせ授業中の静寂に
    最も陶酔している彼女をも、ぼくは見ていた。
    彼女は友人たちと昼食を摂らない。彼女は、施錠が成されていない
    美術準備室に忍び込んでは、自分で作った小さな弁当を食べる。
    ぼくは涼しいところを探す猫のように、孤独な場所を探していた。
    やっと見つけたそこには、ヒイラギがいた。
    乖離を求め合った二人は、不思議と時を共有するのに素早く慣れた。
    ぼくらは同じペースで食事し、必ず二人のどちらかが、二人分の飲み物を買いにいく。
    それは必ず、レモン味の飲み物と、甘ったるいミルクティだった。

    ヒイラギは担当教師が気に食わないという理由だけで、生物の授業を
    真面目に受けない。うなじを隠す黒い髪に、黒いイヤホンを隠して
    古くてセンスの良いディスコ・ソングに没頭する。
    ノートの暗記が試験の点数に直結する安直な方針が、いっそうヒイラギの
    学習意欲を剥いでいるらしい。といっても本当は彼女は頭が良い。
    ぼくは自分でも上手くノートをとっていると思うが、彼女は写しながら
    「千早のまとめ方って才能に満ちてるよね」
    と煽てる。軽口を叩きながら、彼女はぼくのノートを
    自分に分かり易いように、内容を漏らさず転写していく。
    理解力がある証拠だ。
    図書室での作業を終えると、ヒイラギはペンを持つ左手をいたわるように振った。
    ぼくはわざとカバンを持ってきていない。教室まで取りに行く
    取るに足らない時間を、ぼくはヒイラギと共有したくて仕方ない。

    教室に着くと、机の上のカバンに手をかける。
    「なあ、ヒイラギ」
    彼女はぼくの後ろで、黒板にいたずら書きをしている。
    「聞きたいことがあるんだ」
    ヒイラギは振り返った。黒目がちで、ぼくは吸い込まれる錯覚を覚えた。
    「ヒイラギって、どう書くんだっけ」
    彼女は笑って、黒板に柊、と書いた。
    「私、この名前好きなんだ。森下 柊。冬に生まれたからなんだけどさ、
    キレイじゃない?森の中の、地面に近いところに咲いてる柊なんて」
    「俺、その漢字嫌いなんだ」
    表情から笑いが薄まる。それはぼくからも、ヒイラギからもだ。
    「柊の花を見たことがない。けど、字だけ見ると不安になるんだ。
    冬の木なんて」
    思わずぼくはうつむく。ヒイラギの顔を見ていられない。
    「怖くなる。冬の、風か、雪に枯らされるのを思い描いて」
    ぼくは長い瞬きをして、彼女を見た。
    「守らせてくれないか、ひいらぎの事」
    ヒイラギは笑わない。六月の終わりに、柊は咲かないのだろうか。
    僕は、ひいらぎに、想いを明かす。
    「好きなんだ」

    彼女は綺麗だ。実際ぼくが彼女を捉えた理由は彼女の容姿だ。
    だが彼女のすべてには、ぼくを引きずり込む何かがあった。
    それをよくは覚えていない。どうだっていい。
    ぼくは彼女を想っている。

    しかし問題は、今並べた出来事は全て空が青い内の出来事だったということで、
    夜が深まっていくこの状態はぼくを困惑させ続ける。
    何度目かのアナウンスが、ぼくたちの眼前の疾風を予告する。
    電車のライトは、思いのほか不躾で、ぼくは眼を伏せていた。
    ひと時、彼女の白いシャツが光に映えて、ぼくは心臓の活動を自覚する。
    彼女の姿は、ぼくの体を乱す。心は研がれる。
    彼女は電車に乗り込んだ。予想を裏切る行動にぼくは遅れて反応し、
    彼女の跡を追って明るい車内に入り込もうとする。乗客はいない。
    「ヒイラ―――」
    ヒイラギは入ってすぐに止まっていた。また予想を裏切られ、
    ぼくは必死に体にブレーキをかけて彼女との衝突を柔らかくした。
    謝意と、驚きと愛しさに言葉が出てこず、反応も出来ずに
    ぼくとヒイラギはもつれた。体の正面同士がぶつかる。
    僕の首筋に彼女の髪が当たる。感触はぼくに反応を促した。
    「あ、ごめんっ」
    ぼくはヒイラギの顔を覗き込んだ。
    彼女は唇を速く、何より柔らかく、ぼくのそれに打ちつけた。
    刹那、ぼくは突き飛ばされ、ホームに転げた。
    驚いて振り返ると、彼女は半分背をこちらに向けていた。
    ぼくが名を呼ぶと、顔をこちらに少し傾けて、
    「また、明日ね」
    と呟き、ドアは閉まった。
    電車はゆっくりと闇にその身を投げていった。
    ぼくはその場に寝転がり、少しだけ声を上げて笑った。
    彼女の最後の言葉が、とても尊いもので、ぼくはその言葉の傀儡になってしまいそうだった。
    笑いは止まらない。嬉しくてたまらない。

    明日は土曜日だ。
    【2005/05/11 21:54】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |

    禁煙席
    ボタンを押せば人が来る、という動作を、僕は飲み込めない。
    だから腰掛けてからの僕は、彼と向かい合ったまま動けない。
    「何か頼めよ」
    彼は急かす。メニューに手もつけないのに、大層な口を利く。
    「腹減ってないのか」
    対応する。といっても沈黙でだ。僕は修飾され捲くったメニューを見て、
    大蒜で風味付けられた鶏肉のソテーの味を思い描く。
    握り拳大になっている胃が軋む。渇いた口に唾液が注がれる準備がなされる。
    目の前の氷水に手を伸ばしかけたが、触れたガラスの冷たさに
    僕の脆い手は瞬く間に痺れ、固く温いメニューの縁に戻る。
    右手の、机の端にあるちゃちな白いボタン。
    あれを押せば、ここに人が介入するらしい。僕と、彼。僕と、彼が、
    僕と彼と誰かになってしまうのだろう。そこから生まれるものとは―――
    果たしてなんだろうか。いや、生まれないのか。死滅するのだろうか。
    「逃げられるわけじゃないだろうさ」
    解っている。
    「俺はお前のことを追うよ。それ自体には何も意味は無い。
    けれど追われるお前には意味があるだろ。俺の目にお前が映らない。
    そうなるだけで随分、お前は動けるようになるだろうな」
    彼の言う事に何一つ間違いは無い。それがまた、僕の食欲を
    立体的にし、僕の彼への拒絶は加速する。
    僕はどうしたって彼のたなごころの中にある。それなら、
    出来ぬと思っているものに、挑むことは厭わない。
    「すいません」
    僕の舌は、数時間ぶりに言葉を出した。
    はい、只今お伺いします。
    …はい、只今お伺いします。
    …応答…。
    若い女性の声が、僕に捧げられた。
    打てば響くように、僕の涙腺が緩み始める。
    「お待たせしました、ご注文お決まりでしょうか」
    早口の彼女の顔を、ほんの短い間見つめてメニューに目を落とす。
    明るい髪の色、目の周りの濃い化粧。
    数日前に別れた恋人と、少し似た唇をしていた。
    「若鶏のガーリックソテー、セットはライスで」
    彼女は事務的な口調に、馴れた風で愛想を塗して僕に
    注文の確認をする。彼女は、「僕の注文しか聞かなかった」。
    テーブルには、水はひとつしか置かれていない。
    満足は出来ない。いずれ彼はまた、僕に接近する。
    彼女は足早に去っていった。僕は初めて、冷えた水を口に含む。
    汗をかいたガラス、そこに宿る僕の熱。手と唇の熱。

    僕は熱い。しかしいずれ来る、鶏肉のソテーが載る鉄板は
    僕のことを冷たいと思うだろう。この昼日中の外、
    今も光を呑みこみ続けているアスファルトは、僕の進入に
    冷却を覚えるのだろう。けれど僕は、僕の熱を感じる。
    この熱を自分で配給できるようになれば、彼はもう僕に触れられない。
    熱、例えば頬に伝う安堵の象徴のように。

    人はものを食う。そのカロリーを薪に、その身を燃やす。
    僕は産声とともに点いた火を絶やしてしまった。
    火種を僕はこれから長いこと探すだろう。
    冷たい腹は、涼しい水、温かい肉と米よりも、その火種を求めていた。
    【2005/05/09 21:42】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(121) |