lunatrium/fabula cella
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    僕はずっと歩いていた。始発の電車に乗ってどこかに行こうとしていた。
    けれどどこに行こうと思っていたか忘れた。
    だから歩き出してみた。
    いろいろな人とすれ違ったが、僕はそのうちの誰も知らなかったし、
    彼らの中で僕を知っている人もいなかった。いたかもしれない。
    僕は誰とも話さず、何も摂らず、道と障害物だけを見て歩いた。
    何歩歩いただろうと思って、僕は空を見た。
    ―――歩き始めたころは真っ青だったのに!
    空はもう、太陽を送って白くなり始めていた。
    そうか、ここだ!僕が来たかったのは!この空だ!
    笑ってみたが違う気はしていた。栄えた町のネオンが綺麗で、違和感は失せた。
    【2005/07/31 10:32】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |

    近い花
    そのマンションの一室は日当たりが良かった。活字は光に映えた。
    彼が手に持った文庫本の頁がめくれてゆくのは、風だけのせいではなかった。
    一文を探して、彼の指はせわしく頁を撫で、抓み、動かした。
    目の前にあるさぼてんは、少しずつ彼の息を感じ取って湿っていった。
    そしてほんの少しだけ、大きくなった。
    真っ白な壁にかけられた小振りな時計は、秒針の音を余さず響かせる。
    彼は開け放した窓の前でその音を聴く。頁が立てる音はそれによく溶けた。
    「待っていて」
    さぼてんに呟いた。変わらず、手は速い。
    ベッドと、時計と、さぼてんしか無い部屋。あとは彼がいるだけの部屋。
    彼は目的の文を探し当て、ゆっくりと口に出した。
    「―――空よ。お前の散らすのは、白い、しいろい、綿の列」
    さぼてんはそのうたの一行を聴いた。
    彼は本を右手で傍らに置いて、そのまま表紙を撫で回した。
    ふとその手を止めると、空いた左手で、さぼてんを力無く包んだ。
    鋭く小さな痛みが彼の手のひらを覆って離さなかった。
    ゆっくりと彼は手を離し、立ち上がった。さぼてんを鉢ごとベッドに置いた。
    固いベッドは、鉢を倒さなかった。開いた窓を見据えて、彼はベランダに出た。
    空を仰いだ。ひとつ飛行機が、見えなくなるところだった。
    彼は手すりを跨いだ。
    空よ。お前の散らすのは、白い、しいろい、綿の列。
    彼はそう詠った。
    【2005/07/23 16:53】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |