lunatrium/fabula cella
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  • キスマークのつけ方
    多分ふられた。
    六月の曇りの日、ドイツ語の授業が終わると、クラスの仲のいいグループで学食に連れ立った。私をふったのはそのメンバーの一人であり、出席番号が近いおかげでクラスでの授業において作業を共にした人間だった。短い髪を嫌味でないほどに立てた、さっぱりした雰囲気の男で、誰にでも愛想がいい。言動は粗野だけれど暖かみがあった。北から上京してきた私には、その何も考えていない言葉選びと、人が受け取るかを考えた雰囲気が、何だか保護的で魅力だった。
    グループの大体は、一、二年次必修の授業に向かうけれど、私はその枠に心理学の授業を取っていた。グループの中で、クラスの中で、その授業を取っているのは私と彼だけだった。その授業が終わると私たちは、同じ電車で帰る。だだっ広い校舎をのんびりと歩いて、同じ時間に帰ろうとする人込みに追い抜かれながら、趣味が全く合わない映画や漫画の話をする。彼が好きなのはラブコメ映画とシュールギャグ漫画で、私が好きなのは暗い映画と格闘漫画。定期をスムーズに改札に差込み、やや空いた私鉄のホームから電車に乗り込むと、私は彼に譲られて一人分のスペースを残した座席についた。その優しさは、隠すのが苦痛になり始めた恋愛感情を充分強く刺激した。しばらく行くと、私が降りる駅の一つ前の駅に着いた。
    彼は私の家を知っている。ゴールデンウィークに、家で飲み会を開いた席にいたから、最寄り駅がどこかも、ベッドのそばの壁に「タクシー・ドライバー」のポスターが張ってあることも知っている。だから私があらかじめ席を立とうとすると、申し訳無さそうに笑って、別にいいよ、と言うのだ。あと数十秒で、私は電車を降りるのだけど、言いたいことが山ほどあった。たかだか二ヶ月でここまで感情は積もるものなんだと、自分の少女趣味に泣けてくる。唐突だけどさ、私と付き合わない?
    立ち上がり、手荷物を空いた座席に置いてそう言った。彼の表情は、ぴたりと止まってしまった。電車の減速、聞こえていたのか彼の向こうから私に視線を送る、恐らく私たちの大学の生徒。他のものや彼の体は電車に揺れていたのに、彼の表情だけが動いていなかった。
    電車が止まって、ドアが開いた。予測した数十秒と、予測しなかった反応に耐え切れず、私は荷物を持って飛び出した。

    駅歩五分は、東京から実家までかと思うほど長い距離だった。部屋に着き鍵を開け、電気をつけてベッドに腰を下ろすと、不意にサボっていた実家から持ってきた物の片づけをしようと思い立った。自分の部屋にあったものの大体は持ってきた。読んだ本やCD、ビデオやDVDはもちろん、子供の頃の思い出の品もだ。大体の片づけを終えてから、その思い出のダンボールを空けると、小学生の頃に友達と共有したノートがあった。目がやたら大きい少女漫画の下手な模倣が並んだ、子供っぽい愚かさが分かりやすいものだ。他に何かあったかと物色をしていると箱の底からクレヨンが現れた。何故かその時になって、ああ、これは現実逃避だと気付いた。
    何でせっかく出来た友情を壊したんだ、タイミング考えろよ。明日一日落ち込み切って、月曜に会って何話せってんだよ!
    頭の中に怒鳴りつけ、両手に箱をつかんで、思い切り床に叩きつけた。その音ではっとしたが、折れたクレヨンを見るのが嫌で、箱を開けることまでは出来なかった。泣きそうになったけれど、鼻をすすって、涙を流すのは防いだ。
    夕食は食べず、お風呂に入ってすぐ寝た。
    早起きして、朝食の後、ダンボールを仕舞い、ベランダを雑巾がけしてからコーヒーを淹れた。いつもは控えめの砂糖を、今日は二さじ入れてみた。そしてミルクを多めに入れ、よく混ぜながらベランダに座り込んだ。部屋の中は蒸していたから、晴れ間は少なくとも、とても気持ちよかった。カップの中の温いものをゆっくり飲んでいるとチャイムが鳴った。覗き穴から見ると、彼だった。
    開けると、照れた表情でぶっきらぼうに笑って、よう、恋人、とおどけた。うろたえながらも部屋に入れて、コーヒーを勧めたが、即座に取り消した。手に持ったコンビニの袋の中に、甘そうな乳飲料の紙パックが見えたからだ。そういえば彼はどんな時も、百円で買える紙パックの乳飲料を飲んでいる。窓を閉め、四角いガラステーブルにカップを置くと、彼はその隣に袋を置いた。向かっては座らなかった。私はベッドに腰掛けて、彼はその足元に座った。袋から、駄菓子数種類とバナナオレを取り出した。びっくりしたよ、とキャベツ太郎の袋を開きながら彼は言う。今びっくりしてるのはこっちの方だ。袋は開いても、彼は手をつけない。私の顔を見て、彼は膝を立てて目線を私と同じ高さにした。頼むよ、と言ったのが聞こえた。
    頬とも口ともいえないところに、静かに唇をぶつけてきた。もっと早く言ってよ、俺―――。
    腕を首に回して言葉を封じた。二人でベッドに倒れこんだ。彼は一度顔を上げたけれど、すぐにまた近づけた。私は目を閉じた。今度は、唇の真ん中に狙いを定めていた。下唇を、微かに噛まれた。反射的にやや開いた口を舌でなぞられた。私も彼の唇をついばんだ。そっと目を開けると、彼は目を閉じたままだった。彼の頭は私の首まで落ち、鎖骨の少し上を吸われた。
    この男は、キスマークのつけ方を知っている。なぜわざわざそれを残そうとしているのかは分からなかったけれど、何だか独占欲のように思えた。さっぱりした振る舞いにそぐわない子供っぽさが少し不愉快ではあったけれど、すぐにこちらを見つめて笑った顔が無邪気で、どうでもよくなった。
    そこで行為は終わり、駅前で一緒に昼食をして、駅で別れた。昼食の注文をして待っている間に思い出した。子供の頃に親や友達と喧嘩をして、誰とも関わりたくなかった時、よく一人で絵を描いた。クレヨンは、思い通りになる、物を言わない遊び相手だった。これからも私はクレヨンに頼るだろうけど、一人にはなりたくない。失いそうだった友情も手に入ってしまった恋愛も、今まで失ってきたそれらも、私がクレヨンに依存しないための大事な糧なんだ。晴れ間はまた少なくなっていて、もしかしたら降り出すかもしれなかった。帰ったら閉め忘れた窓の鍵を閉めて、クレヨンを目に見えるところに飾って、それから彼にメールでもしようと決めた。
    【2006/04/10 09:11】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |