lunatrium/fabula cella
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    煙草を買いにアパートを出たが、よく使う自販機はぼくの吸う銘柄を切らしていた。そばの小学校から嬌声が聞こえる。午前中なのに校庭があんなに賑わっているということは、きっと二時間目が終わったあとの長い休み時間が始まったのだろう。
    明るい声がぼくを元気付けた。部屋に戻ってシケモクでも吸おうと思ったが、コンビニまで歩くことにした。雲は多いが、今日は晴れと呼べる日和だ。白い雲の多さが、青空を際立たせていた。

    「煙草の匂い、嫌いなの」
    子供の声がした。
    得体の知れない恐怖が湧いてきたが、声がした方向へ走った。小学校の校庭を囲うフェンスに駆け寄り、その中を見る。防球ネットの向こう側に雲梯と昇り棒がある。その遊具にも、その向こうの校庭にも、誰一人子供がいなかった。先程まで、高い声が響いていたのに。
    左手に見える校門から敷地に入る。静寂が響いている。虫の声も木の葉が擦れる音も聞こえない。ぼくがいるスペースは校舎への歩行路で、大きな花壇の向こう側にフェンスが張られ、更にその向こう側が校庭になっている。フェンスの向こうへの通路を認めると、ぼくはそちらへ歩みを進めた。誰もいないし、ボールも転がっていなかった。何の音も無い小学校は、余りに空虚だった。
    「煙草くさいぞ、君は」
    今度はただ一人の声がした。辺りを見回すと、先程視認した雲梯の上に、女の子が一人腰掛けていた。ぼくは思わずその方向へ走り、雲梯を昇った。足場から飛び上がり、彼女と同じ目線を得た。四つん這いのぼくは、半身をこちらに向ける彼女の視線に捕えられた。何か大きいぶにぶにしたものの中で、自覚出来ないほどゆっくりと消化されるような緊張。
    見覚えのある彼女に、責められる様な目を向けられている。首も隠さない短髪には、留め具などは隠れていない。上等なジーンズと、黒っぽいTシャツ。どこかで見たことがあった。けれど名前も、どこで会ったかも、全く思い出せない。
    「絶対吸わないよって、言ったくせに」

    彼女が誰か思い出すと同時に、驚きのせいでぼくは頭から地面に落ちた。閉じた瞼の暗闇に、鈍痛と共に光が散った。余りの痛みに、頭の骨がふやけたようだった。彼女とは小学校の時からの仲で、高校は分かれてしまったが、大学で再会した幼馴染だった。彼女は父子家庭の子で、家族仲が良かった。ただ、父親の煙草の匂いだけは嫌悪していた。
    「大人になっても絶対吸うな」と言われて、ぼくは嫌われたくない一心で、吸わないと誓った。

    目が覚めると、保健室にいた。カナは雲梯から落ちたぼくを連れてきてくれたらしい。
    「せっかく肩貸して連れて来たのに、頭を打った人を動かしちゃいけません、って怒られちゃったよ」
    お前のせいだぞ、と彼女は笑って、小さい氷袋をぼくの頭に優しく押しつけた。痛いが冷たくて気持ちいい。
    ―――吸わないよ、絶対。カナに嫌われたくないから。
    そう言うとカナは、本当に心配そうな顔をした。無意識に言葉が出てくるのが鬱陶しくて、痛みに耐えようと目をつぶった。その時思った。
    将来のぼくが、決して煙草を吸おうと思いませんように。

    自販機の前でそんな事を夢想して、最後に思い出を振り返り、十数分経っただろうか。小学校からチャイムが響き、子供たちの声はゆっくり、ゆっくりと小さくなっていった。
    それから一ヶ月禁煙した後カナに告白したが、彼女には恋人がいた。その男を喫煙スペースで見たことがあったぼくは、帰りしなに久し振りに煙草を買った。アパートにライターを忘れてきて、すぐには吸えないのがもどかしい。
    【2007/04/16 10:08】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(4) |