lunatrium/fabula cella
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シュウ
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  • エーテルを見た夜
    「Tシャツ一枚で寒くないのか? 風、強いだろ」
    「着替えるから、あっち向いてろ。見たら、金、払わないからな」
    山間の高速道路を、水色のオープンカーが走っていく。規則的に並ぶオレンジ色の外灯が車体を舐める。けたたましい走行音は、乗っている二人の耳にしか入らない。前後には車の影は無く、会ったばかりの二人は、既に奇妙な連帯感を覚えている。孤独な時だということを、二人とも分かっていたからだ。運転する男の革ジャンは風を弾き、助手席の少女が着ている、膝の上まである大きなTシャツは、ばたばたと風に踊っている。男の髪はワックスでとげとげしく固まっていたが、少女の短い髪は盛んに乱れた。
    「姫、そんなにあられもない姿を知らない男に見せるなよ。いい恋が出来ないぜ」
    「前見て運転してろ」
    姫と呼ばれた少女は、助手席で気兼ね無く着替えを始めている。持っていたショルダーバッグから様々な衣類を取り出しているが、その中に下着も含まれているのでは、男も諭したくなる。
    「文字通りTシャツ一枚っていうの、今まで見たこと無かったよ」
    「僥倖でしょうがよ、実物見られて」
    「そんな色気無い物言いで、パンツ穿きながら言われてもグッと来ないんだよなあ。君の歳も歳だし」
    「うるせえな! こんなガキでも抱きたがるヤツはいたんだよ、大勢」
    男の表情が強張る。少女は意にも介さず着替えを続けているが、彼の表情に気づくと居心地を悪そうにした。
    「……悪かった。娼館にいたのか」
    「通ってすぐ分かっただろ? あの辺りはそういう所なんだよ。やっと逃げ出せたんだ、やっと。ずうっと先の街まで連れてってくれたら、報酬、弾むよお」
    ポロシャツとジーンズ姿になった少女は、陽気に、盗んだ金だけどさ、と付け足した。
    「追われたりしないか」
    「あいつら、あの町、出たこと無いんだ。田舎の小金持ちが、金、回し合ってるだけだよ、所詮。アタシらを働かせてたのだって、昔、土地持ってたから権力があるだけの田吾作だしな。東に逃げたら山の向こう、西に逃げたら川の向こうぐらいにしか、見当つけられないんだよ」
    「姫は、あの町から出たことがあるのか?」
    彼女は事も無げに、無いよ、と返した。彼女は同じ身の上である「田舎の小金持ち」を、「田吾作を」、一つの気兼ねもせずに罵っていた。その語気には隠せないほどの喜びがあった。
    男は少し悲しくなった。
    ドライブインからは、揚げ物のにおいがした。少女は大量に食べ物と飲み物を買い込み、後部座席にそれを広げた。男は買い物には付き合わず、車内から星を見ていた。
    「好きなもん、食べていいよ」
    少女は友達と話すような口調を使うようになった。男は笑顔だけ返し、エンジンをかけた。車が走り出すと、少女は後ろを振り返った。彼女は遠ざかってゆくドライブインを見ていた。
    体験の乏しい彼女の眼には、光の塊が小さくなっていくようにしか、その光景は映らない。
    少女は初めて接した食べ物の陳列、効いていない冷房、保温されたフライドポテトの匂いを思い出し、そこから離れていくことをゆっくりと自覚した。少女はこの時初めて、世界は自分の眼に映る大きさでないと知った。
    「姫は強いんだなあ」
    「……どういう意味だよ」
    少女は言葉を発した時、自分が涙を堪えていることに気づき、震えた声を恥ずかしがった。その涙は逃亡の喜びからか、世界の大きさに打たれたためか、彼女には分からなかった。
    「隠してるだろ? 見せないようにしてるだろ、俺に。自分が見てきた、嫌なもの」
    男は、少女が醸すものに惹かれていた。Tシャツ一枚で夜道に飛び出してきた時から今まで。
    「弱みを見せないよな。気を遣わせまいとしてくれてるよな。強い証拠だ、かっこいいよ」
    そう言った後で、コーラを取ってくれ、と男は頼んだ。少女はコーラのビンを掴むと、男に突きつけた。彼がビンを掴むと、すぐに正面を向いて膝を抱えた。顔を隠そうとしたのだ。
    少女は男のことを見られなかった。弱みを見せない姿勢は、娼館で身につけた手管であり、体に染みついたそれは、長いこと意識されることも無かった。彼女は、客でもない男にそれを感じさせた自分が、何故だか許せなかった。それは恥じらいであり、自分の人生への憎しみだったが、まだ彼女にはそこまで理解出来なかった。
    男は少女の頭を撫でた。夏の夜の湿った風の中で、彼女の髪はしっとりと水気を逃がしていない。
    「……なんで、姫って呼ぶの?」
    「そりゃあ、きれいだからさ」
    少女は今まで何度もきれいだと言われた。体の至るところを指して、油っこい発音で、汚い下心でもって褒められた。言葉の後に舌も指も這わない健やかな賛美は、少女にとってとても柔らかく暖かで、甘かった。
    少女は涙を隠し、顔を上げて聞いた。
    「ねえ、車ってさ、ライトがついてるって聞いてたんだけどさ。あれがそうなの?」
    彼女が指差したのは外灯だった。
    「違うよ、車体についてるんだ。ただ、この車は作ったヤツが――俺の友達なんだけど――、イカレててな。三十分も点けてるとバッテリーがあがるぐらい高出力なんだよ。電気が空になるんだ」
    「じゃあさ、ちょっとだけ点けてよ。アタシ、このオレンジの列、飽きちゃった」
    男はダッシュボードからサングラスを取り出し、シガーライターの脇のスイッチに指をかけ、少女には目をつぶっているように忠告した。
    少女が目を閉じた瞬間、男はスイッチを押した。車体の先端から凄まじい光が拡散した。瞼の裏の暗闇が、一瞬で砕け、彼女は少しだけ怯えた。男は、ゆっくり目を開けろ、と言った。
    光に目を慣らすと、少女はあまりの光景に言葉を忘れた。
    一直線に伸びる道路が、目に映る限り明るく照らされている。オレンジの外灯は存在感を全く失い、道路の脇に広がる山の裾野にまで光は届き、木の葉が照らされ、闇から緑色が浮き上がっている。光は闇を照らすだけのものだということ、それはとても美しいことだった。
    少女はシートの上に立ち、フロントガラスを掴み、光が向く方向に叫んだ。涙が溢れたが、構わずに叫び続けた。男はちっとも迷惑な顔をせず、微笑みながらコーラを飲んだ。涙を拭いながら、少女は束縛から逃れる自分を感じながら、自由というものの輪郭を少しも見出せないことにも気づいた。だが、少しも不安ではなかった。気色悪く扇情する嫌らしい照明とは違う、ただ闇を照らす強い光を見て、少女は、これからどうしたって生きていけると思った。何の根拠も無く、けれど希望を具えてそう思った。
    「アンタ、名前は?」
    少女は叫んで、そう訊ねた。走行音に負けない、大きな音量だった。
    「ラタ、っていうんだ」
    男――ラタも、叫んで答えた。
    「ラタ、アタシね、車の後ろについてる、赤い灯りが好きだった。部屋の窓からそれを見てると、きれいに光が飛んでって、あれについていけば町を出られるのにって思った。でも、あんなの本物じゃないんだね。
     車のライトって、こんなに強いんだもん!」
    「そりゃあそうだよ、姫。テールランプは自分のためについてるんじゃない、後ろを走るヤツのためなんだ」
    ラタが車のスピードを上げると、少女は、姫は明るく笑った。
    「車は前に進むんだ。だから前しか照らさないのさ!」
    おかしいぐらいのスピードで、異常なまでの光を出して、水色の車は騒がしく走っていく。その後に取り戻される静かな闇を、誰も見ていなかった。
    【2007/08/21 22:59】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |

    明日のいつかに誰かんち
     「皆、やばい。もうグリッドマン始まっちゃうよ」
     ヨシヒロがそう叫ぶと、皆はサッカーボールから目を放して、校舎にかかった時計を見た。五時二十分。「電光超人グリッドマン」が始まるまで、あと十分しかない。体育倉庫に忍び込んで取って来たサッカーボールを、マサトが適当に校庭の端まで蹴っ飛ばした。登り棒にぶつかったボールは、校庭の真ん中の方に転がってきたけれど、ぼくたちはそれに構わずに走った。校門近くに停めた自転車の鍵を回す、がちゃがちゃというやかましい音、錠が外れたガシャンという素早い音。それらを響かせながら、ぼくたちは明日、日曜日のことを話そうとした。
    「明日、どうする?」
    「ええと、そうだな」
    とにかく早く帰ろうとするあまり、皆が言いたいことをまとめないままに言うせいで、ぼくたちの言葉は、自転車から出る音と同じくらい、意味が無くてうるさいものになった。
    「じゃあ、一時にウメさんに集まろうよ。それから決めればいいじゃん」
    ぼくがそう言うと、皆は賛成して、鍵が外れた自転車を走らせ始めた。今度は、じゃあね、バイバイ、と、意味がはっきりした言葉が、夕暮れに飛び交った。ぼくも急いでペダルを踏み始める。
    ペダルがきしんで、タイヤが地面を滑って、チェーンが回って、耳元を風が通り過ぎていって、家に辿り着いた時、自転車を停めた時、ぼくは初めてその日の夕方の静けさに気付いた。
    四時間目が終わって、お腹がすいたまま帰るのは楽しく、日光が真上から落ちてくるような帰り道も楽しかった。けれどそれは、いつもの土曜日だった。でも、今日はそのあとが、何だかいつもと違った。
    昼ご飯のチャーハンを食べていると、母さんに「拾った子犬みたいに食べるわね」と言われて、おかしかった。校庭に集まってすぐにドロケイが始まった。足の速いヨシヒロと同じ組になれたから、何だかうわついていた。だれてくるまでドロケイをした後、ボールを取り出して、サッカーをして……気が付けば、もうすぐ五時半だった。
    いつもなら、もっと早くに誰かが気付くものだ。それなのに今日は皆、グリッドマンよりも、その時の遊びの方が大事なことと思っていたみたいだ。ぼくにはそう思えた。自分がそうだったからだ。
    その日のグリッドマンは、悪役のせいで、主人公の父親が死刑にされかけるという話だった。変身したくても、事情を知らない母親に叱られ続けて、それがなかなか叶わない主人公がもどかしくて、辛かった。
    最終回の近さを感じさせる次回予告が終わると、母さんがそれを見計らって、お風呂に入れと急かしてきた。外で遊び続けて汚れたまま、居間にいられると落ち着かないらしい。文句を言っても、どうにかなる相手ではないので、大人しくお風呂に入ることにした。母さんは、こっちが怒るとすぐ怒る。
    体がじっとりと汗ばんでいるのが分かったので、先に体を洗って、ゆっくりと熱いお湯につかった。遊んでいる時とは違う汗が出てくるのが分かった。一人でかく汗は、さっきと違って何だか静かだった。夢中で遊んでいたせいで分からなくて、一人になってやっと気付いた静けさが、全然消えようとしなかった。
    今日はとても楽しかった。好きな友達、好きな遊びばっかりだからだと思う。
    ヨシヒロ、マサト、シュンジ、ショウ、テツヤ、ツトム、と、一人ずつ顔を思い出す。皆、すごく好きなやつらだった。嫌いなところが無いわけじゃないけど、手放しに好きだと言えるやつらだ。そういう友達ばっかりが自分の周りにいるだけで、「いつもどおり」じゃなくってしまうのが面白かった。つけたことは無いけど、日記を始めるのにいい日なんじゃないか、とさえ思った。
    「今日が、今までで一番楽しかったかもなあ」
    マンガかアニメの登場人物になったつもりで、ひとりごとを言った。それほど気持ちが落ちついていなかった。だから、そのひとりごとがどれだけ恐いものか、すぐには気付けなかった。
    本当に今日が一番だったら?
    汗がいっぺんに消えてしまった気がした。ぼくは湯船から身を乗り出して、カベにかかっている鏡を見た。髪はずぶぬれで、顔にはたくさんのしずくがあったけれど、どれが汗なんて言い当てられないことを今更知った。
    今日が一番だったら、本当に今日が一番楽しかった日なら、明日からどうなってしまうんだろう。明日も同じメンバーで集まるのに、もし今日よりもつまらなかったら、ぼくは平気な顔が出来るだろうか。いつかまた「今までで一番楽しかった」と思える日が来ることが、全然想像出来なかった。電話が鳴る音が聞こえた。このままお風呂で考えていたら、のぼせてしまいそうだと思ったぼくは、のそのそと湯船のふたを閉めて、浴室から出た。外の涼しさのせいか、黒いシミが、じゅわっ、と視界に広がり、それと同時に頭がふらふらした。さっきまでの楽しくて落ちつかない気持ちは、全部お湯にもれ出したみたいだった。目と頭を普通の時のように戻したくて、バスタオルで髪をめちゃくちゃに拭いていると、母さんがぼくを呼んだ。いらいらした口調で返事をすると、母さんは、今の電話はぼくへのものだ、と言った。
    「ヨシヒロくん、明日は親戚のおうちに行くから、遊べないんだって」
    ぼくは、やっぱり今日より楽しい日は来ないんじゃないだろうかと、本気で考え始めさせられた。明日はヨシヒロがいない。幼稚園から仲が良くて、今まで一番多く遊んだだろうヨシヒロが、明日は来ない。
    「嫌だよ!」
    ぼくは大声を上げた。母さんはおどろいて、私に言われても困るわよ、と言った。
    「分かってるよ、だけど、嫌だよ」
    それ以上しゃべると泣き出してしまいそうだった。母さんはぼくの様子がおかしいことに気付いていたが、ご飯食べましょう、とごまかした。何かあったのかとしつこく聞かれなくてよかった、と本気で思った。
    晩ご飯を少しだけ食べた後、ぼくはゲームもせずに、ランドセルから自由帳を取り出した。ぼくが一番好きなノートだ。空想のメモ書きや、マンガのキャラの落書きがいっぱいつまっている。それらを見ていると、少し心が落ちついた。最後のキレイな真っ白いページに、ぼくは今日あったことを全て書こうと思った。
    朝起きて最初に目に入ったのは、空、ゆうべの雨のせいか、キレイに形を作った入道雲。夏のような空なのに、冷たさが残った空気。入道雲は大きかったけれど、太陽をジャマしていなかった。寝ぼけていたから、食卓が思い出せないけど、絶対にこれがあったな、という自信があるのは、うち独特らしい、おかしな焼き方の玉子焼き。通学路の水たまりに、空がくっきり映り込んでいるのを見ていると、ヨシヒロがおどかしてきた。水たまりをしばらく見た後、一緒に学校に行った。その時、放課後に遊ぶ約束をした。朝休み、一時間目の終わり、二時間目が終わった後の長い休み時間……時間が経つごとに、約束に加わるやつが増えていった。帰りの会が終わって、帰って、チャーハンを食べながら母さんにからかわれて、自転車で学校まで戻ってきた。
    ドロケイをやりたいとヨシヒロが言い出して、ぼくはそれに賛成した。しかしドロケイをやるには宝にするものが無かった。ショウが、体育倉庫に忍び込もうと提案して、校庭の隅っこに、わざわざ皆で行った。ショウの言うとおり、少しだけ開いている窓があった。ぼくはジャンプしながら窓を開け放し、窓のさんに指を引っかけた。体重がかかって、さんに指が食い込んだ痛みをこらえながら、足でカベを蹴って登った。お腹をさんに持ち上げるのに成功すると、ほこりのニオイがした。手前に見える飛び箱に乗り、サッカーボールを探した。暗い倉庫の中は、抜け道でもありそうなほど汚くて、くさくて、ワクワクした。ボールを持ち出して、外から窓を閉めて、ドロケイが始まった。ぼくとヨシヒロ、ツトムが同じ組になった。ヨシヒロが大活やくしたために、ぼくたちの組がほとんど勝ち続けた。そのせいでマサトが、サッカーをやろうと言い出した。この時にはもう、ぼくは遊びに夢中になっていて、何時ごろに何があったかなんて思い出せない。だからヨシヒロが叫んだ時、ぼくはすごくおどろいたのだ。そして急いで家に帰ろうとしながら、ぼくは明日の約束をした……。
    そこまで書いたあたりで、ぼくは自分がどれくらいばかばかしいことをしているか、やっと分かった。ぼくは今日を切り取って、ずっと保管しておこうとしていた。そんなことをして明日を迎えても、今日以上に楽しめるはずが無いのに。ぼくは半分以上文字で埋まったそのページをやぶり、丸めてゴミ箱に捨てた。そして眠くも無いのに、自分で布団をしき、その中にもぐり込んだ。その後、消し忘れた電気を消した。
    ページをやぶったことで、ぼくは「今日が楽しかった」という良い思い出さえも無くしてしまう気がした。明日を楽しもう、明日を楽しもうと思うほど、嫌な出来事が浮かんできた。もし明日、誰も待ち合わせの駄菓子屋に来なかったら? もし明日、皆がぼくに「行けない」と電話してきたら?
    次第にぼくは、明日なんて来なければいいんだと思い始めた。それが間違いであることに気付いても、ぼくにとって、迫ってくる明日は、薄暗い、冷たい日にしか見えなかった。
    【2007/08/10 00:39】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |