lunatrium/fabula cella
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  • どうしようもないところで
    日曜日より、真夜中よりも、その日その時の教室は静かで、僕はそれを変えられないことに気付いた。いや、やろうと思えば出来たのだ。ただそうするのはとても恐ろしく、そうしたくないあまり、不可能だと思い込んでいた。世界というものが、その時の僕には曖昧すぎて、関わり方すら分からなかったのだ。その時は何も変えられなかった。
    放課後まで続いた五時間目。その時の僕は当事者でありながら、何も知らない風に座っていた。クラスメイトの大半がそうだった。成り行きを全て知っているのに、何も喋らない。『隠すのではなく言わない』といういびつな緊張が、教室を満たしたまま流れもしなかった。
    「……どうして黙ってるんだ」
    担任である草間先生が呟いた。僕は、先生はこの後怒鳴るんだろうな、嫌だな、と恐怖しながら、その声が自分にだけ向けられるものではないと知っていて、陰のある安心をしていた。
    「卑怯だぞ、お前ら!」
    先生は案の定、声を強くした。怒鳴り声を聞いて身が竦み、汗が湧き出て、Tシャツの内側に熱気が生まれる。廊下にも飛び出しただろう怒鳴り声は、帰り始める隣のクラスの人にも聞こえただろう。僕たちは、先生ではなく彼らに問い質されたら、本当のことを言うのだろうか。
    「小学六年にもなって、下らないイジメなんかして、それを隠して……」
    僕は先生の言葉が、どんどん教室を静かにしていることに気づいた。言ってはならないのだという自戒が溢れ出て、僕たちは恐ろしく強い絆を持ち始めた。
    何も分かっていない奴、分かろうとしない奴には、何も教えてはならない。それは無垢な排他だった。
    どうしてあの頃は、仲間と友達が同じ意味になっていたのだろう。どうして、同じ事をしていれば、それだけで仲の良い友達だと思えたのだろう。時間の共有の節々で、僕らは相手を嫌いになり、好きになることが出来るのに。
    それを省みさせたのが、あの日の出来事、その中心にいた彼だった。
    「清、お前もどうして黙ってるんだ。殴られたんだろう、誰かに?」
    窓際で一番前の席に座った彼を、先生は見つめた。僕は彼から数席挟んだ真後ろで、教室の緊張の緩みを感じた。
    鼻血止めのティッシュを抜き、清が立ち上がった。そして、教室全体を見据えた。
    「ぼくのこと、嫌いなのは分かりますから、謝ります。ただ、今度からは、無視で止めておいて欲しいです」
    清の言葉を全部聴いて、僕はひとつでも余計な動作を取らないように、必死で身体を固めた。何かの素振りを先生に気づかれるのも嫌だったし、動揺が言葉になりそうで恐かった。
    先生は、清に対して追求を始めたが、清はそれを全ていなした。その後すぐ、集まりは先生が匙を投げて終わりを迎えた。状況が見えていない先生からは、清の言葉はいじめられっ子の言葉にしか聞こえなかっただろう。だが、事態を諒解している僕たちからしてみれば、彼の言葉は、正体の知れない警告のようだった。
    先生が解散を告げて教室を出ると、ばらばらと生徒も出て行った。清は席に座って、窓の向こうを見ていた。
    (嫌いなのは分かります、なんて、どうすれば言えるんだろう。嫌われるのは、物凄く恐いのに)
    この時僕は、嫌悪を受け入れることが出来る清を見て、畏れに良く似た興味を持った。

    清 一郎というフルネームを持つ彼は、五年生までは目立たない人間だった。セーイチローという、姓名がそのままあだ名になった滑稽さと親しみ易さがあって、同学年の大体が彼の名前と顔を知っていた。それは目立つタイプだ、と言えるけれど、僕が言いたいこととは少し違う。少し目立つが、変わってはいない。目立つことが出来るのは皆に好かれるからで、皆に好かれる奴は皆から逸脱しない奴のことを示していた。清は、目立つけれど、どこにでもいるタイプだった。
    そんな彼が孤立し、同級生から殴られるまでに至ったのは、単に逸脱してしまったからだ。彼は六年になって明らかに人を遠ざけるようになったし、雰囲気も言動も、どこか朧なものになっていた。
    何より、彼は異常に鋭かった。まことしやかに流れる噂など、彼はすぐに真偽を見抜いた。誰が誰を好きだとか、誰の靴を誰が隠しただとか、当事者でもない人間が話しているのを聞いただけで。クラスメイトが清を殴ったのも、僕とある女子との仲を囃している時に、清に窘められたからだった。
    「あの子を好きなのはお前だろ。一回振られてるからって、そんなからかいで誤魔化すなよ」
    僕には脈絡の無い指摘に聞こえたが、クラスメイトは図星を射られたようで、激昂したのだった。
    「清は、俺が清のことを好きか嫌いか、分かる?」
    事件の翌日、僕は清にこう尋ねた。桜の匂いが漂ってくる昇降口を掃除している時だった。言ってから、まるで清をからかっているような言葉遣いだと思い、訂正すべきだと思った。
    「多分ね、好きとまではいかないけど、嫌いとは全然似てない興味がある。何かちょっと嬉しいよ」
    清は僕の訂正を待たず、下駄箱の周りを丁寧に掃きながら、笑って答えた。
    「佐々木は、ぼくにそう言われて、自分でどう思う? そんな感じ、するかな」
    僕は素直に頷いた。
    放課後、一緒に帰る間、話は自然な勢いを保って、止まらなかった。ゲームの話もアニメの話も、超然とした清には全く似合わなかった。僕は幼くも苦心して、桜の話を始めた。
    あの頃から、桜の見てくれよりも匂いが好きだった。花の色とぴったり合う、有機の匂い。特に甘くも快くもない桜の匂いが、梅の良い香りよりも春を感じさせるのだと言うと、清は共感してくれた。清は、匂いは塊だ、と言った。色々な匂いは塊になって空気を泳いで、鼻はその一部を吸い込む。だから花のそばにいても匂わない時があるし、離れていても、濃い匂いを感じられるのだという。それなら、空気も一つの大きな塊で、匂いは泳ぐというよりも、大きな塊に溶けているのでは、と僕が言うと、清はとても感心した風に「佐々木は思った通り、結構敏感なやつだ」と言った。
    「六年になってぼくに近づいてきたの、佐々木が初めてかもしれない。よく、ぼくなんかと話す気になったね」
    「……昨日、新井に殴られたでしょ? ああいう黙り方して、卑怯かなと思って」
    「そういう気遣いがちょっとしか無いのは分かってるよ。それより、ぼくに興味を持ってくれてるな、と思って。当たり前だけど、全然いないんだ、好意持ってくれる人。佐々木と話せて嬉しい」 
    清が嫌悪を耐えられる人だとは分かっていたけれど、感じたままの好意を言葉に出来る人だと、その時知った。 
    初めて一緒に帰るので、分岐点を迎えることに気づいていなかった。僕が曲がる角を、清は曲がらない。何だかすんなりと別れることが出来ず、引きずっている初対面の感触をほぐすように、僕たちは話を続けた。静かな住宅地を、時折低学年の子供の嬌声が貫いた。僕たちの危うい会話はその都度止まり、どちらかの思い切りで再開した。日が暮れるまで続くかもしれなかったその会話は、闖入者によって止められた。
    「希」
    聞き慣れた声で名前を呼ばれた。近所に住んでいる同級生の、片山ゆきほだった。
    「へえ、セーイチローと仲良くなったんだ。何か希っぽくないね」
    ゆきほとは、幼稚園の頃からの付き合いだった。通園バスを待つ間と乗っている間にしか話したことは無かったが、幼馴染と呼べるほどの気安い関係を持っていた。だからこそ、時に仲をからかわれたのだ。
    「ゆきほ、清と同じクラスになったことあるの?」
    「一回も無いよ」
    「……佐々木、下の名前、ノゾミっていうんだ」
    清がランドセルを背負い直しながら、僕を見た。僕は慌てて頷き、答える。
    「そうだよ、希望の希って書いて、ノゾミ」
    清は笑って僕に手を振り、帰っていった。僕の返答への反応は、まるで無かった。

    「セーイチローって、ムカつくよね」
    その後一緒に帰りながら、ゆきほがそう呟いた。清を友達だと思い始めている僕は、その言葉に動揺した。
    「どうして、そう思うの?」
    「だって、この前まではフツウだったのに、急にヘンなこと言い出したりするようになってさ。そうやって目立つの、気持ち悪いよ。希も友達だと思われたら大変だから、気をつけな」
    「友達だよ、もう」
    ゆきほはそれきり黙って、別れるまで一言も話さなかった。少ない情報で清を嫌うゆきほが、無性に憎らしかった。
    清を頑なに嫌うゆきほに反発して、清のことを親しく思い出す自分に気づいていた。だから、清への気持ちがまた不透明になっていった。
    彼への気持ちを整理したい思いもあって、僕と清は急速に仲良くなっていった。清は以前の友達の多くに離れられていたし、僕は人付き合いが得意でなく、お互い決まったグループと毎日遊ぶようなことは無かった。二人で過ごす時間は長かった。
    僕らの孤立は迅速に進んだ。それはとても自然な速度だった。
    清と話すうちに、彼は本当に何でも分かるのだと思った。
    「言葉そのものと、話す時の言い方とか強弱とか、あとは表情。特に目だね。じっと見てると、その人が何を言いたいのかは大体分かる。どうやって相手を思ってるか、どれだけ真剣か、とかね」
    清が感じるように、人の動作から何かを感じたことは無い。ただ彼の鋭さには、いつも畏敬を覚えた。二人きりで話を続けると、徐々にコミュニケーションは濃密になっていった。僕は慣れによって、清から得る清自身の情報を、以前よりもずっと立体的に感じることが出来るようになった。それが清の知覚に似ているのかと思うと、親しみながらも畏れている清に近づいた錯覚を招き、清の神格化は徐々に曇っていった。畏敬の刺激も、覚えるごとに麻痺してきていた。
    僕が気の置けない相手から感じ取るように、全くの他人から感じ取られるのが清だった。それがどれだけ困難なことか、当時の僕には分からなかった。
    六月の終わり、良く晴れたのに蒸し暑い日のことだった。空が夏のように極端に深いのに、湿気が肌に張り付いたような汗をかき、太り気味の僕は随分Tシャツを濡らしたのを覚えている。草間先生の急用だとかで、四時間目が自習となり、トイレに行くと言って教室を出たきり戻らない男子が多く出た。僕と清もその中の一員だった。清は、面白いところを見つけた、と言い、ついて来るよう促した。下の階に降りた。四年生と五年生の教室が並ぶその階には理科室がある。その準備室が目的の場所だという。廊下の窓は全て閉まっていた。僕たちは、窓に影が映らないよう、這うようにして廊下を進み、どの教室の誰にも悟られず、準備室に忍び込むことが出来た。僕は清に続いて中に入り、ゆっくり戸を閉めた。耳を澄ませると、先生と生徒の声が聞こえてくる。僕らはそこから壁を何枚か隔てた奇妙な静けさの中にいた。
    「希、冷えてるよ」
    清は部屋の隅にある冷蔵庫を開け、ペプシコーラの缶を二本取り出した。白く、細長い。
    そのコーラは異常においしく、今では味が思い出せない程だ。暑さは冷たいコーラをおいしくしただろう。けれど、棚に並んだ実験器具と、それらの専門性が年季を帯びて発する臭気、教室の床の板張り、周りの全てが『学校』なのに飲むコーラは、骨を溶かすように甘かった。
    「草間先生が管理の担当だし、今日は実験無いって分かったから、チャンスだと思ったんだ」
    「どうして実験のこと、分かったの?」
    「理科室を見れば、大体分かる。先生が緊張した感じが、部屋に残るはずだから」
    清によると、冷蔵庫の中に何か入っているというのは相当稀なことらしく、一週間以上前からコーラを入れていても、それが見られた形跡すら無かったという。
    「昔は、悪戯って好きだったんだけど、最近はやろうと思えなかった。でも、希となら楽しいかなって」
    この時に最も強く、僕と清とは対等だと思った。友達としての関係を指すなら、もっと以前からそうなっていた。ただ、畏れていた清の能力を自分も帯びたような下らない錯覚が、この時はっきり形になった。
    だから、あんな言葉も言えてしまったのだ。
    「清は凄いよな。俺なんかより全然凄いよ」
    そう言って、残り少なかったコーラを飲み干した。自虐のように話せたのも、対等だという自信からだった。
    「どこが凄いと思う?」
    聴いたことの無い声色で、清が呟いた。僕は何にも気付かず、言葉を続けた。
    「理科室の話もそうだけど、ほら、四月に。嫌いなのは分かるから無視で止めてくれって言ったでしょ。嫌いって思われるのに耐えられるのって、凄いなあって思った。だから俺、清に話しかけたんだ」
    「……耐えられてないよ」
    頼りない声に驚き、清の方を向いた。その時初めて清の表情が崩れるのを見た。穏やかでよく微笑んでいた表情が涙を堪えていた。窓の外は光が強く、清はそれを後ろに構え、消えていきそうに見えた。
    「希の幼馴染の人、いるだろ。あの人なんか、ぼくのこと、本当に嫌いなんだろうなって思う。それが分かると、ぼく、本当にいなくなるとかした方が良いような気がしてくる。第一、辛すぎるよ。自分のことを嫌いだって分かってる人間と付き合ってると、身体のどっかが、ギシギシするんだ。分かるようになる前は、こんな事無かったんだ。分かっちゃうと、もう逃げ方も分かんない」
    僕は汗をかいていた。水分を摂った反射や、温度と湿度、純度の高い緊張と同情が汗をかかせていた。その汗は謝意でもあった。罪悪感が焦りを生み、肌が粟立たせて、汗はその上を滑った。彼のことを分かった気になって、共感する演技をしていた自分を詫びていた。
    ゆきほの顔が浮かんだ。四月に清といるところを見て、清への嫌悪を僕に明かした時のあの表情だ。清は感じ取っていたのだ。彼女の感情を、それが見えないところから。
    僕は、いつの間にかゆきほの分まで詫びようとしていた。足りない分は涙で補った。感情が暑さで澱んで、身体の外に次々に出てきていた。
    「どうして、希が泣くんだよ」
    清の声は笑っていた。僕は必死に詫びた。自分がどれだけ利己的に清と付き合ってきたこと、清を理解した振りをしてきたこと、とても安易に、清のようになりたいと思ったことを、嗚咽を忍ばせながら。
    「良い奴だな、希は」
    清はそうやって僕を許し、汗に湿る僕の肩を優しく叩いた。
    僕らは頃合を見計らって準備室を出て、教室へ戻ろうとした。先程と同じ要領で廊下を進み、階段の踊り場に辿り着いた。下の階からすれば死角である踊り場でも、僕たちは目線が合えば笑うだけで、何も喋らなかった。泣いた後の気恥ずかしさのせいだったのかもしれない。
    教室に戻ると、学級委員である女子から少し叱られただけだった。彼女は僕だけに注意をし、清には話しかけなかった。僕たちは自分の席に座り、給食に備えて支度を始めた。
    その間中、僕はゆきほをひっぱたきたかった。あれから何年も経った今でも、その時の気持ちを持ち続けている。嫌悪を人に見せる残酷さを、僕は許したくない。
    清が感じていた、僕よりよっぽど強い苦痛。嫌悪を『見る』ことは、傷つくのと同じことだと、あの日初めて知ることが出来た。それなら――僕よりずっと強い幸せも、安らぎも、彼は感じることが出来るのだろうか?
     
    何が出来るかわからないほど愚かだったから、不可能を失敗にすりかえられた。だから、何でも出来ると錯覚していた。何が出来るか、そのために何をすればいいか。それを考えた時、僕は大人になった気がする。不可能な事が見え始めれば、それ以外の事が、自分に出来る事だった。
    僕は清に、自分の周りの人に、してやれることをしたいと今でも思う。不可能なことを知ってしまっても、出来ることを全て知るには、まだまだ時間がかかる。
    大人が持たなければいけないもの、思いやりと無知への愛を、僕は早くに知ることが出来た。どれだけ時間が経っても失ってはならないものを、あの時あそこで得たからだ。清と過ごし始めた日々、どうしようもないところで。

    【2007/09/30 19:57】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |