lunatrium/fabula cella
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シュウ
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  • キュア
    夜半過ぎまで、あの女は帰ってこない。あのうわばみは、きっと今夜も男に酒を奢ってもらっている。「店にキャッシャーが無いと思えば、相手に気兼ねせず物を頼める」、初めて二人で会った晩に、そんなことを言っていた。
    あの女はカクテルを好まない。砂糖や果汁に馴染ませた円い酒を飲んでも、新月の夜空のように暗い酔いを得られないと知っているのだ。冷やしきられているのに、のどを滑るや熱線を放ちだすような液体、水と火の混合物。そういう酒を、身銭を切らず、飲みたいだけ飲む。それがどれだけ夜への歓待となりえるか、あの女は知っている。そうして部屋へ帰ってくると、消化器に濁りをこびりつかせて醸される特有のにおいを振り撒きながら、僕にしな垂れかかる。僕が服を脱がし、化粧を適当に落としてやると、あの女は、財布になってくれた男のことを、眠たそうに僕に説明する。どれだけ美しい男も、醜い男も、その口述の中では全く平等になる。容姿や身なり、物腰、語彙、財力、雰囲気。人が人を評価する凡そ全ての要素は軽く扱われる。女は私情をはさまず男の全てを説明する。そこではあまりにも冷徹な要約が行われている。自分もその語調で要約されているかもしれないと思うと、背筋が寒くなるほど簡潔な口述。
    今晩も、あの女はそのアクションを繰り返す。ほとんど瞼も開けず、ベッドに臥してきた。ぼくは女を起こす。服を一枚剥ぐ度、濁った血が汚したように、肌から饐えたにおいがする。下着だけを身につけた姿にして、僕は専用のタオルで彼女の顔を拭う。化粧が落ちてゆく。表情が全く変わらないものだから、容姿を変えている心地が全くしない。
    「ストリート・ファッションのブランドを抱えてる人だった……」
    寝言のように女は呟く。
    「クラブ遊びが身に染み付いてるからって、コロナ・ビールばかり飲んでた。私には高いジンばかり飲ませてくれた。童顔だったわ、大学生みたいだった。すごく高そうなチェーンが首に」
    ぷつりと言葉が切れた。眠った証拠だ。僕はタオルをくずかごに捨て、水場に立ち、指から化粧水の匂いを落とす。ついでに水道水を飲む。冬の冷たさが、水の薬臭さをごまかしている。
    女の口からは寝息が聞こえる。息を吐くとき、わざと発音しているかのように、はあっ、と確かに聞こえる。隣のビルがのしかけてくる夜の闇に潰されそうなこの部屋で、数多の暖房の排気に包まれて冷却され続けるこの部屋で、女は下着で眠る。僕は女を暖めるために、自分も肌を曝して、添い寝をしてやらなければいけない。
    そうせず朝を迎えれば、女は僕を殴るだろうし、手近に刃物があればまた傷をつけられる。僕は寝巻がわりの長袖のTシャツを脱ぎ、穿いているスウェットも脱ぐ。トランクス一枚のからだを、女の稼ぎで買ったベッドと、女の稼ぎで買った毛布の間に滑り込ませる。そして女を抱きすくめる。やわらかく熱い。酔いのにおいの後に、香水とシャンプーの香りがして、その奥に女のほんとうの体臭があった。

    卵を焼き、コーヒーを淹れる。パンを焼きもする。そうしている内に、女は起きてくる。それが分かっているから、女の分まで用意はしている。
    朝の七時半、下着姿に一枚何か羽織っただけの僕たちは、座卓を挟んで朝食を摂りながら、何も話さない。沈黙に耐えかねてか、いつも彼女はCDをかける。今朝はカントリー調の穏やかなロックをかけている。尋常でなく有名なミュージシャンであるはずなのに、一向に名前も曲名も浮かんでこない。女がいつだか、世界一売れているベスト・アルバムだ、と得意げに説明していたことだけ覚えている。
    女は食事を済ませ、シャワーを浴び、着替えを始める。女は裸体を僕に曝すことに、もう何の羞恥も見せないし、僕は端から欲情を向けたことは無い。コートを着始めた彼女に声をかける。
    「今日の小遣いは?」
    女は僕の言葉への反応をひとつもしなかった。まずい、と思った。女はコートを着ると、座卓の上のカップをとる。僕がこの部屋に転がり込む前からあった、彼女愛用のものではない。最近僕が買った安物のカップだ。中身が入っているそれを、僕の胸に投げつけてくる。コーヒーのお代わりをしたばかりで、Tシャツに沁みてくる液体は、熱い。無意識にTシャツを脱ごうとすると、それより先に、女は僕の頭を蹴り飛ばす。見た目に細いとか、ジーンズを穿いていて窮屈だとか、そういう理屈と関係の無い威力だ。こめかみの上を蹴って足を痛めたか、彼女は怒りを露にする。フローリングに蹲る僕の顔を、どうにか殴ろうとしながら、
    「よくも一人前に無心ばっかり、恥知らず」
    そんな言葉を奮う。ひとしきり僕を殴ると、息を弾ませながら財布から札を出してくれる。それを放り投げ、バッグを持って出て行った。普段通りの動作をしていたくせに、ストレスを溜めていたらしい。
    女は、昼間は会社勤めをしている。夜になると男を引っ掛けて、飲ませてもらう。その前後にプロスティテューションという過程がある。
    台布巾を持ってきて、床にはねたコーヒーを拭く。上から垂れて、溜まったコーヒーを揺らす液体がある。僕の血だ。痛みがいつもと変わらないので、止血を急ぐ気になれない。Tシャツを洗面場で手洗いするついでに鏡を覗いた。鼻血が出ているだけだ。
    コーヒーの始末をつけて、終始鳴り続けていた朗らかなカントリー・ロックを止める。ティッシュを鼻に詰め、ベッドに横たわると、蹴られた頭が疼いているのに気づく。僕は貰った金をどう遣うか考えている。
    気軽にいろいろな店を回っていると、欲しいものと必要なものの区別がつかなくなってくる。部屋にあるマンガを思い出す。ワニを飼う女性の話だ。その人物は、欲しいものを買うことで、心からの悦びを得る人物なのだ。あの女があんなに面白いマンガを持っているのが不思議だ。
    思案して、僕も酒を飲むことに決めた。部屋に帰り、夜まで待ち、ネオンと喧騒が匂い立つのを見計らって部屋を出る。
    ライブ・ハウス内にあるそのバーは、主食もつまみも日替わりのカクテルも扱っている。入場料を払わないのでライブは観られないが、漏れてくる音と歓声を聴いていると、そうしているだけでも贅沢に思えてくる。僕は昨夜女が発した言葉につられて、初めてコロナ・ビールを飲んでいる。紛れも無くビールを飲んでいるのに、体のほんの一部はテキーラを飲んでいるつもりになっている。不思議な酒だった。
    メキシコの酒を飲んでいるのに、僕はこんなにも静的でいる。一年ほど前ここで出会ったあの女と、その日から始めた共同生活は、徐々に僕を静かにしていった。あの頃の僕は、大学を出たばかりで職も無く、郷里の家族との連絡を絶ち、方々を回って露命を繋ぐだけの生き物だった。友人たちは、茶化してか貶してか、僕のことを野良猫のようだと言った。それを明かすと、女は、家猫になる気は無いかと言ったのだった。
    その席で、女の素性は大体明らかになっていた。二十歳になる前から、夜の街が好きだった。そこで味わえる最も楽しい時間を探したい。そのためには酔えばいい、抱かれればいい。堅気の仕事で最低限の金を稼ぎ、夜遊びに全身を浸ける、それが気持ちいい……。享楽的な馬鹿の所業だと思ったが、奪われる心配の無い布団に寝られるなら、この馬鹿な女の誘いに乗ってもいい。そうしてその夜から、僕は女の部屋に居座っている。
    初めて女が暴力を振るってきたのは、その次の晩のことだった。酔って帰った女は、怒りを隠す素振りも見せず、勝手にCDラックを漁り音楽を聴いていた僕を蹴り飛ばした。肩を蹴られ床に転げた瞬間は、驚きが強すぎて、痛みも恐怖も覚えられなかった。
    「それ、絶版になってんのよ! 勝手しないで!」
    驚きの余波のせいで理解が捗らない僕にいらついてか、彼女は持っていたバッグで僕を殴った。そのせいでCDケースが床に落ち、傷がつき、彼女の怒りを増させた。
    攻撃が止み、彼女がシャワーを浴びだす中、僕は寝そべって天井を見据えていた。
    こういう生活がこの先続いていくかもしれない。そう思った。
    だから逃げる、とか、それでも寝られる部屋が欲しい、とかという打算も反応も億劫になっている自分をはっきり感じていた。
    数日に一回、僕は殴られ、そのうちの数回に一回は血を流す。大体週に一度は流血することになる。一年何かを続けるということはやはり麻痺を呼ぶ。いつからか僕は、その流血を月経のようなものだと思っている。女が女として生きるため月に一度は血を流すように、僕があの部屋の住人としてあの女の同居人として生きる以上、それは必要な流血なのだ。
    ビールを三本乾して店を出た。いつまでもいると、はしゃぎ終わった客たちでごった返してしまう。歓楽街とは逆の方向へ歩き出し、部屋に向かう。
    自動販売機の下に、野良猫を見つける。やわらかそうに丸い、黒ぶちの奴だった。眠たそうに僕を無視している。僕も同じ呼び名を持っていただけあって、こういう奴には愛着がある。僕は来た道を引き返してコンビニに入り、つまみ用のサラミを買った。自販機へと歩きながら袋を開け、小さな肉片をつまみ出す。かがみ込んで、体勢も変えていない猫にそれを見せる。すると奴は鼻をひくつかせながら近づいてきた。
    猫は僕の指を噛んだ。思わず呻いてしまうほど、速く鋭い痛みがした。僕が落とした肉片を咥え、奴は素早く駆けていった。背後から笑い声がする。煙草を吸っている開襟シャツの男が二人、こちらを向いている。僕が振り返ると、二人は緩慢な動作で備え付けの灰皿に煙草を入れ、歩いていった。笑われていたのは、僕の行動なのだろう。
    僕は久しぶりに絶望していた。そうしながら、冷静に部屋へ戻ろうと歩き始めた。本当に気が落ちている時には、割と簡単に身動きが取れるものだと、僕は知っている。
    なぜ猫は僕の好意を蔑ろにしたのだろう? どうして男たちは僕の悪気の無い動作を笑ったのだろう?
    街灯がよそよそしかった。僕は部屋のドアの前で、かじかんだ指で鍵を一度こぼした。

    真っ暗に冷え切った部屋で、僕は座り込む。体の末端が痺れ始めているが、頬と胃だけが酔いのせいで熱い。
    自分を嘲らないで欲しい、侮らないで欲しい……せめて落ち度の無い時ぐらい、そんな目を向けないで欲しい。誰に向けるでもない呟きが、血中を廻る。酔いの火照りで全身を暖めようと、体を縮める。それでも指先は痺れている。嘲られたことではなく、指が冷たいのが嫌で、悲しくなる。どうしてか、世界のほんの一点での事件から、僕はこれほどの絶望を――。
    鍵が開いた。女が帰ってきたのだ。いつも通り、夜半を過ぎての帰宅だった。女は暖房も明かりも点けない僕を殴るかもしれない。
    不自然な部屋に怯えてか、女の足取りはのろい。女もまた明かりを点けないまま、ベッドの脇で縮まった僕を見つけた。……ちょっと。女はそう呟いた。呼びかけられた僕は、彼女の方を向く。……泣いてる? 女はそう訊いてきた。僕は自分が泣いているかどうか、正直確証が持てない。血を流しているかどうかを鏡で確かめる生活を続けてきたので、目には出来ない自分の顔をどうこう言うのは憚られる。
    女は酔っているはずだが、とても聡明な口調をしている。しらふの口調にとても似ている。
    女はコートも脱がないまま、僕を抱き締める。酔いのにおいの後に、香水とシャンプーの香りがして、その奥にほんとうの体臭がある。今日はそのにおい全てが、僕の中にすべりこんでくる。僕はその時、自覚できるほどの涙を流す。自分では女の体に腕も回さないのに、全身で彼女をいとおしく想っている。目をつぶり、部屋の暗闇をいっそう濃くした僕は、コートの襟元のファーに嗚咽を埋め込む。
    僕たちは、互いの唇も陰部も重ねたことが無い。ただ女は、僕が弱っている時にだけ、恋人のような関係を演じてみせる。その気遣いと暴力のどちらが女の本懐なのか、僕には分からない。それでも、僕は今この時のような安楽を、善い、と思う。
    殴って欲しいわけでも、愛しているわけでもない。僕はただ求めているのだ。
    赦してくれるもの。
    やわらかいもの。
    抱き締めてくれるもの。
    そうして僕を慈しんでくれるものを。
    僕は猫になった気になる。目を閉じて、絶望という混線が、女によって解かれるのを感じている。僕はのどを鳴らす。女の指が、僕の髪を梳く。僕はこの女の、どこかが好きだ。
    冬の上着は寒さを防ぐために、硬い。コートが女の肌を阻んでいる。
    【2008/06/20 19:48】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |