lunatrium/fabula cella
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    鮮やかな雨に、坂道が濡れている。毛を湿した茶色の犬はその坂を上ってゆく。濡れることにも寒さにも興味を持たない貌をしている。犬は雨宿りの必要を感じていないのかもしれない。
    傘の無い私は濡れる必要を感じている。夏休みを前にして、今夜設けられた酒の席に行きたくないと思いながら「雨滴の間隙を縫えるほど小さな生き物になりたい」と、そればかり願っている。制服が水を含むほど、望んでいる状態に近づけると信じている。
    犬は遠ざかっていく。爪がアスファルトを弾く音が、徐々に小さくなっていく。犬は雷鳴にすら反応しない、万能なワンダラーだった。
    重たいプリーツ・スカートは枷そのものだった。スカートの襞ひとつひとつに、約束という小さなフックがつけられて動きを封じられている気がする。私は枷を忘れようと足を止め、雨空を仰ぐ。雷を孕んだ雲は、激情に泣き喘ぐ子供のように、狂的な可愛らしさを具えている。私は待っている。あの中にある激情が、私の肺腑も貫いてしまうのを。世界のほんの一部から生まれる、発光するエナジーに滅ぼされてしまいたい。
    私は坂の上へ走り出そうとして、革靴の底を滑らせて、痛烈に転倒する。膝を擦りむき、たちの悪い痒みに似た痛みを確かめ、視認はすることなく、また走り出す。ステップするたび、傷口が疼く。私はそれをねじ伏せるように走る。痛みは徐々に疲れに雑じっていき、足全体の質感の中に溶けてしまう。運動によって体が揺さぶられ、痛みはいつの間にか、全身に均等に流通している。雨滴が目を刺す。視界がぼやけてゆくほど、幼い頃、海で溺れ死ぬことに憧れたのを思い出す。波濤の根へと飲み込まれながら、四肢を捥がれたい気持ちが心の中に波立ったのを思い出す。今、一時の感情の揺らぎだけで、心という器を内側から砕いてやりたい。
    坂の上には神社がある。小さな社を囲む木々は、和菓子細工のように美しい葉を下げている。温い雨に磨かれた葉の密集に、私は全てを忘れて立ち止まる。
    淡い黄緑色をした香りが鼻を掠めた。それに気づくや、網膜に黄緑色が濃くなる。柑橘類の香りだった。葉の美しい木々の中には、何か酸っぱい実をつけるものがあって、慈雨によってその個性をきらめかせたのかもしれない。
    私からは何かが香るだろうか、この鮮やかな雨に濡れる私からは。酒など飲んでは、濁った臭いを出してしまう気がした。今、潤った肌から、雷鳴のような音波を出してみたい。感情そのものを匂いにしてみたい。私は何かを吐き出したくて、精一杯に吼えた。高台から、住宅地を薙ぐつもりだった。耳障りな高音に、のどが痛んだ。その叫びは地を這い、最高速に達すると上昇した。
    眼に見える限りの街並から、幾百もの傘が舞い上がった。それは歩行者がさしていた全ての傘だった。黄緑色の香りは私の声によって走り、盗まれた私の傘を掠めたようだった。

    【2008/02/20 21:29】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |

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