lunatrium/fabula cella
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  • エトランゼとデラシネ
    椿の花が落ちるように人が死ぬ時代が来る。
    故郷を捨てた男はその理を信じている。彼は金を持たない。女は夜毎に変わる。行く街には知らぬ女がいて、去る街には捨てた女がいる。それだけで良い。絆はきれぎれであれば、単なる美しい装飾にしかならない。そう思っている。
    男は成人を認められる前から行脚を始めた。溌剌と乱れた若さが収斂し、老いの兆しが僅かにさした容貌は、よくまとまった美しさを見せている。ある女は輝いていた若さの残滓に惹かれ、ある女は行脚の労苦が織り上げた濃厚な老いに魅せられた。彼を目にした女の殆どは美しいものを見た気になった。男色家も同様だった。
    男はある夜、気付く。全ての地を踏んだことに。世界唯一の大陸を、何年も歩き続け、彼は訪れていない地をもう持っていなかった。
    宿をとる気が失せた男は、疲れを無視して路を歩く。彼は旅路の中で初めて、眠りながら歩いた。
    瞼を上げると、虚無の中にいた。足は地面の感触を失っていた。吹く風や草木の匂いはゼロという大きな存在の核へと吸い込まれていた。それでも男の体は進んでいる。どこへとも知らず、歩んでいるつもりも泳いでいるつもりもないのに。
    それに付き添う女がいる。男はそれに気付き、行きずりの女を口説くのと同じつもりで話しかける。
     ここは?
     どこ、と言えるだけ、ことばはすぐれていない。
     どうしてぼくはここに?
     おろかだから。
     君は誰?
     創生の女神でもあるし、死にかけの胎児でもあるし、芸術家を目指す遊女でもあるし、拒食症のおぼこでもある。
     どこへ向かっているの?
     加速こそしているけど、まだ決まっていない。
     ぼくの問いを、予め?
     予め知っている。
     それならもういい。
     なら教えて。
     どうぞ。
     死が蔓延するのをどうして信じるの?
    「露悪になるよ。
     ぼくは戦災と疫病が駆逐の渦を成している地に生まれた。両親も兄や姉たちも、ごく自然に死んでいった。ぼくは生き残った。なぜだかね。手足が腐ることも無かったし、銃弾や砲弾は、ぼくを捉える前に止んだ。ぼくは墓を作った。探せば探すほど屍は見つかった。埋めたり燃やしたり、その時々に思いついた手段を使って、弔いのイデアを見つけようとしていた。食べず、飲まず、眠らずにそうした。そんなに屍に触れていりゃあ、自分の生鮮な部分なんか止まってしまう。
     ぼくはあれから何も食べてはいないし、眠ってもいない。それなのに成長はしている。恐らく死にながら生きている。そういう状態で、君、暮らしとかを保っていく気になるかい? ならないだろう。そうなってみれば分かる。空虚であるということは、さわやかなあきらめが内蔵になっていることを示すんだ。感情なんていうのは、内臓や体液が温かないきものだけが持つものだよ。
     面白いことにね、空虚はどれだけ取り除いても尽きることは無い。むしろうつろであることが確かになってゆく。そこに何かを注いでもらうべきなのに、ぼくは自分の空虚をばらまこうと思った。会話して、まぐわって、別れることで。
     この空虚を押しなべてしまえば、人は皆、うつろな想いの苗床になる。ひとのだいたいは奪いたがりさ。空虚を奪うとどうなる? 奪ったものは空虚自体を手に入れるし、奪われたものは空虚を喪った分だけ空虚になれる――」
    無限のマイナス。逝きゆく《死》それ自体。
    「――ひとは、無限の喪失の中で、〈ただそれをするだけのいきもの〉になるんだ。ただそれをしているだけでいい、そういう生活が、どれだけ乾燥しているか、きみ、分かるかい? 分かりたくない?
     ぼくはそうなりたい。ひとがどう思うかまで考えられない。ぼくはすべてのいきものが屍に見えるんだよ。思いやるなんて、できないよ。
     ……でも……君は……そうでもないな……」
    男と女が在る虚無は膨張していた。男の知覚がそれに侵食される。女は予め感官の全てを喪った生命だから、ただ男のそばにいるだけしか出来ないし、それでいいとかいけないとかいう判断を持っていない。
    男は女に手を伸ばそうとする。しかし一刹那の衝撃によって静止を余儀なくされる。
    膨張する虚無の中心点にありながら、男の脊髄の全体から伸びたねとつく糸が、虚無の表面に張り付いている。膨張する虚無と男は接続してゆく。男の眼は人間の第一感覚としての役割を忘れ始め、この世にある限りの色を認識していく。全ての音楽も全ての酒も全てのペニスも全てのヴァギナも、ただ、色という配列で男に入り込んでくる。男は自分の内蔵が灰色であることを信じていた。色の奔流は男のからださえ満たし、灰色であるはずの内臓を染め上げる。男は感情を嘔吐する。虚無の中にそれが飛び散る。女はそれを汚いとも思わず、美しいとも思わない。男の脊髄から逃れ、男を見つめている。
    男の意識は爆縮する。広がり、広がり、そして広がる虚無の中で、男の意識は小さいものになってゆく。それは破砕されるのか、それとも拡大のためのプロセスなのか。女は恐らく知っている。
    虚無はいつしか膨張を止める。男の脊髄はついに膨張を追いきった。
    一応形状をなしていた虚無は限界を無視できる存在である。
    風船が割れるように虚無は破裂する。虚無の中に満ちていた虚無が散じていく。稀薄にはならず、〈そこにあった分が伸ばされてゆくのに、そのままに濃い〉。
    男の脊髄が虚無へと融解していく。男は小さな小さな意識が脈打つのを聴こうとしている。意識の拍動は、鮮やかなスペクトルとなって男に届く。男は安堵する。なにか恐ろしいものから解き放たれた心地になる。
    女はそれを見ている。背中から虚無に侵食され、ゆっくりとほどけていく男を見つめている。女はそっと男の右頬に触れる。
    男はその刺激には耐えきれなかった。無理やり凝固しようとしていた虚無と感情が刺激に暴れて、押し固められた意識の結晶を砕いた。
    男は苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。苦しむ。
    女が触れた箇所から、結晶が解かれて液化した意識がこぼれる。意識の液は虚無に溶ける。男の感官は、それを「痛い」と思う。
    依然、色に支配される男の眼には、ただ痛みが映る。傷の痛みではない。病の痛みでもない。それは痛みの純粋な信号。
    強い、強い痛み! 白熱する惑星の爆発の瞬間、一秒二十四こまの殺人、魂の褪色!
    男は痛みに苦しみ、虚無の中に叫びを木霊させたはじめてのいきものになり、女は虚無の魂として、絶対の不可視物へと自分のからだを配列しなおした。

    男はこの時二十八だった。その時間に見合った分の静寂を経た後、右頬に女の指の感触を残して、二千二百六十六字前の状態へ戻った。

    【2008/03/09 12:25】 短編モノ | TRACKBACK(-) | COMMENT(0) |

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