lunatrium/fabula cella
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【2009/01/08 03:05】
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ぼやけたあこがれ
兄が電車をなくして、僕の下宿を訪ねてきた。コンビニで買ったアイスクリームを二つ、手土産にしていた。袋から察する分には、近くの店で買ったのだろうが、道草がひどかったのかカップが濡れている。溶けそうなアイスを冷凍庫に突っ込み、
「どこで遊んでたんだ」
と訊くが、答えも言わずに、兄は半身を露にして、
「夏だな」
としか言わなかった。八月だからな、と言おうとしたが、無粋だと思い止した。
僕たち二人は別々の大学に通っている。両方の校舎とも同じ地名を冠してはいるが、とても徒歩で行き来できる距離ではなく、通じている線も違う。兄が電車の都合で僕の下宿に来るのは、初めてではなかった。
彼の通う美大はセオリックなイメージを持っていた。奇抜、サイケ、『前衛』、そしてイリーガル・ハイ……。
周囲への順応が早い兄が、そんなところでモラトリアムを過ごすとどうなるのだろう。何かに影響されて、趣味をころころ変えるような人が、そんなにきつい色をしたところで。
あまり歳の離れていない僕たちであるから、仲は悪くない。年齢の差がない分、僕たちは簡単に距離をとることが出来ていた。諍いがない代わりに、激情を闘わせることもなかった。そのために、兄への心配はとても冷徹で、凡庸な心配と頽廃する者を見るスリルが同居するに至った。
シャワーを勧めると、兄は素直に、ありがとう、と言い、浴室に入った。僕は彼が脱いだTシャツを摘まみ、違和感を覚える。暑がって脱いだ様子だったが、少しも汗で湿っていない。湿りはおろか、体温の名残すら無かった。僕は自分の沈黙を意識しながらそれを畳んだ。
シャワーを浴びた兄が、バスタオルを腰に巻いて出てくる。彼が撒いている湿った空気がいやに冷たいのをいぶかしみ、そっと浴室を窺い、タイルを撫でる。湯を流したとは思えない冷たさが指に響く。
彼は水を浴びたようだ。
僕が洗面所を出ると、兄は下着だけを穿き、バスタオルを頭からかぶっていた。
「暑いからって、水を浴びるのは危ない」
注意を受けた兄は、ああ、と簡単に答えた。タオルの奥の表情が気にかかり、居心地を悪くした僕は、飲み物を出そうと冷蔵庫を開けた。冷気にくるまれて、何種類ものボトルが並んでいる。
僕は家の事が好きで、一人暮らしに憧れていた。冷蔵庫や装飾は、文字通り自分一人の生活を彩るようで、それに磨きをかけるとき、それを眺めるときにはとても満足した。
何が飲みたい、と訊こうとした途端、
「あの河越えれば……君と二人きり」
兄がそう呟いた。脈絡の無さに、彼に向けていた不安が、いちどきに脹らんだ。それは何の言葉かと訊ねると、『魔法』という歌の歌詞だという。歌い手を明かさないまま、兄は話を進めた。
「河っていうのは、何なんだろうなあ。どういうものなのかな」
明らかな問いかけの口調に焦る。兄にここまで抽象的な物言いをされたことはなく、返答に困る。僕は「河」を扱ったものを記憶から捻り出す。
「此岸と彼岸って言うし、境界線じゃないの? 吉本ばななとか、そういう話、書いてただろ。ああ、でも方丈記では無常の表現だし、『河よりも長くゆるやかに』なんて漫画もあったな。それは人生の表現か。
自然が為した線引きとか、流れゆくものの代名詞とか……そういうものじゃないかな」
兄は動かない。僕の話に満足したのか、異論を組み立てているのか、理解したかも分からない。自分は人の表情からどれだけ多くの情報を得てきたかを知る。顔が見えないことが、どれだけ会話を暗くするか。かといって電話とも異なる、相手が目の前にいるのに、顔が見えないことの違和。
「河童、覚えてるか」
またも兄から投げられた唐突な言葉を、簡単には飲み込めない。
「小学校の、おれの同級生で……お前も、お前の友達も一緒になっていじめた……」
そう言われればすぐに判る。引っ込み思案で友達がいないその子に、坊ちゃん刈りを由縁についたあだ名が「河童」だった。しかし由縁はもう一つあった。彼は用水路に隠れる癖を持っていた。毎度同じところに隠れるので、意味は全くなく、僕たちは悪口雑言を浴びせたものだった。トンネルのようになった用水路に反響する罵り。反射して意味を喪う言葉の群れを、全て吸い込む暗闇。僕はその暗闇を見て、麻痺していた道徳心を再生させて、それでもいじめの場にいる自分が恐ろしくなっていた……。
「あの頃からお前、ずるかったよなあ」
兄の呟きは正鵠を射ていた。いじめの非道を叱られた僕は、兄が一緒だったから、という言い訳で説教から逃れたのだ。自覚していたことだけに、僕はそれを何気なくはぐらかそうと出来る。
「何がだよ」
「叱ってる訳じゃないんだ、褒めてるんだよ。そうやって立ち回れるのを。おれを教訓にしただろ。
河童をいじめてたときも、おれが叱られてたときなんかも。羨ましいよ、実際」
「下の兄弟ってのは、皆そういうもんだぜ」
「でもお前、おれのこと本当に好きだったよな。だからおれから色々学べたんだろ」
僕は否定しない。あるときまで兄に過剰なまでに惹かれていたのは事実であり、その感情は死んでいないからだ。
両親が不在で、二人きりの食卓。兄は僕の服についていた糸屑を摘まむと、それを宙に浮かべた。僕は触ることも出来ず、兄の真剣な面持ちに中てられて、灰色の糸が浮遊するのを只管に見つめた。超常を目の前につき出された衝撃は、兄を自分から少しずつ引き剥がしてゆき、べったりだった僕は兄に付きまとうのも、兄の友達に取り入ろうとするのも止めた。兄は恐ろしく、そして魅力的な人間となった。それが、僕が小学校に上がったばかりの頃で、僕たちはそれ以来一定の距離を隔てて生きてきたのだ。
最近になって問い質すと、あれは納豆の粘りで糸を下げていただけだ、と笑われた。その不細工な魔法の正体を知っても、兄への尊敬は揺るがなかった。むしろ悪戯の姿が見えたせいで、兄にくっ付いていた頃の事を思い出した。誰かに叱られるのも恐れず、仲間と背徳を楽しむ彼の笑顔に憧れて、自分もかくありたいと思った事、自分の仲間にもそれを求めた事、その憧れの対象が家族であった事。
「河のことを考えると……お前の事も浮かんでくる。お前まで巻き込んで耽った、下らないいじめのこととか、お前を河に落としたらどうしようって怯えとか……どうしてか、河を思い出すと……」
「落ちなかっただろ? 兄貴も僕も」
「ああ、落ちなくて良かった。でも、そんな突拍子もないことばっかり、ガキの頃は心配していた」
さっき言った歌聴いて、それを思い出したんだ。そう言って、兄はタオルを頭から外した。彼の表情はいつもと変わらなかった。短気だが穏やかな貌をする人で、生活を共にしていないと、僕は彼の短所を忘れた。この貌だから、この貌が出来るから、きっと仲間を作れるのだろうと思う。僕が惹かれたのも、この貌だった。友達の親しさと年長者の権威の両方を具えた表情だ。
何を潜めているか判らない、魔法使いの貌。あの浮遊のようなまやかしを生み出して、僕を魅惑する者。あの瞬間の衝撃を思い出し、僕は彼の魔法を想った。
「本当に暑いな、アイス食べよう」
兄がそう言うので、僕はつい開けっ放しにしてしまっていた冷蔵庫のドアを閉める。兄は近づいてきて、冷凍庫の扉を開けた。
「アア、涼しい」
気持ちよさそうな声を上げた兄は、頭を冷凍庫に近づける。そして一瞬、足に力を込めて、全身をその中に投げ出した。彼は小さな冷凍庫に吸い込まれていった。
慌てて僕がその中を見ると、二つのアイスのうちの一つがなくなっていて、兄の姿もなかった。
彼は僕が好きな味のアイスを残していった。彼らしいと思った。
【2008/05/23 12:10】
短編モノ
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